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   ***  ……一年次になるべく多く授業を取っておいた方がいいと、アドバイスをしたのは誰だっただろう、と中島は疑問に思う。  たぶん二年の先輩だ。三年次、四年次は実習や就職活動などで忙しくなるから、必要な単位はなるべく早め早めに取得した方がいいよ、ともっともなアドバイスをしてくれたのだ。  その適切なアドバイスのおかげで──今まさに、中島は大変な目に合っている。 「このレポート、まだやってないの? おまえ大丈夫?」 「……いや、これは今日やるから」 「って、中島、今日バイトじゃなかったか?」 「…………」  図書館の一番奥の広い六人掛けのデスクで、隣からは城崎が顔をしかめて中島のノートを覗きこみ、目の前では田村公章がデスクに肘をついて中島を眺めていた。  季節は二月頭。まさにテスト期間真っ最中だ。  テスト期間には筆記試験もあるし、レポートもあるし、試験がなくても最後まで講義があることもあるし、授業によってさまざまだ。当然取っている授業数が多ければ、それだけ負担は多くなる。しかも今回、中島にとっては〝成績〟も重要になってくるため、手抜きができない。  レポートのための資料とノートを広げたデスクの上で、中島は絶望的に頭を抱えた。 「もうやだ! 講義の八割、優と良の成績を取るなんて無理だよー」 「それが授業料免除だか奨学金だかの条件なら仕方ないだろ」  城崎が冷静に隣から突っ込み、ふうん、とのんきに田村は首を傾げている。 「なに、そういう条件があんの?」 「条件はあくまで〝成績優秀者〟で、正式に数字として提示されてないけど、教授が目安的にはそんなもんなんだって教えてくれて。……でも無理だよ、そんなのー」 「そうか? 俺、前期そんなもんだったぞ」  真面目で頭の良い田村と一緒にしないでほしい、と中島は肩を落とした。だがそうやって無理だ無理だと嘆いている場合ではないのだ。  自営業だった中島の実家は、昨年末に自己破産をした。父親の働き口は二月から目処があるらしいが、実家そのものがローンの返し終わっていなかった店舗兼自宅からは引っ越すことになったことも含め、実家の家計は完全に困窮している。しかも中島家は四兄弟だ。長男はすでに就職しているものの、次男である中島の下にまだ高校生の弟と妹がいて、学費もろもろ今後も必要なお金が多額に想定される状態だ。  そんな中、大学生の中島も一時は、大学中退の選択肢も考えたが、授業料免除や奨学金などを活用して大学に残ることを決めた。しかし、そのためには成績が優秀でなければならない。  ──ということで、中島は現在、数重なる試験勉強とレポートに挑んでいる。城崎や田村と一緒にいるのは、レポートのための資料などを教えてもらったためだ。 「城崎、俺らはそろそろ授業だぞ」 「──あ、二人とももう行く?」  ふと田村がそう城崎に声をかけてきて、慌てて中島は顔を上げた。次の授業時間は中島にとっては空き時間だが、二人はどうやら同じ講義を取っているようだった。早々に立ち上がった田村に続いて、城崎がデスクに広げていた自分のノートを片づけながら席を立つ。 「ありがとね、いろいろ。城崎も田村も」  気にするな、と田村が軽く手を振って、城崎はうん、と短く頷いた。 「……中島、おまえ、今日バイトだよな」 「あ、うん。えっと、今日は遅くて六時から十一時までだから──」 「分かった。あんまり無理するなよ」  城崎はそう言ってあっさり背中を向け、田村と連れだって歩き出していた。あ、と思ったが、図書館で声をあげて呼び止めるわけにもいかずに、中島はその背中を無言で見送った。  ──十一時までだから、帰ったら電話していい?  本当は最後までそう言いたかった。  城崎の背中が図書館入り口付近の人ごみにまぎれて見えなくなって、中島はつい大きな吐息をつく。試験期間が忙しいのはお互い様だ。だけど〝付き合っている〟のだから、もう少しなにかあってもいいのではないだろうか、と中島は思う。  そう、大学を辞める辞めないの騒動あと、仲直りをきっかけに一応、中島は城崎圭とは付き合い始めたことになっているはずだった。〝一応〟と言ってしまうのは、どうにも中島自身が〝付き合い〟というものがどういうものなのか、よく分かっていないからだ。  一緒に勉強をしたり、一緒に帰ったり、ごはんを食べに行ったりするのは、友だち付き合いと一体なにが違うのだろう。  ──キスは、した。  乱暴で強引に奪われた初めてのキスを勘定に入れないとすれば、一度だけ。中島が大学を辞めると聞いて、城崎が兄と同居する部屋まで駆けつけてきてくれた日のことだ。兄に追い出されたあと、手をつないで城崎の部屋へ移動して、そこでキスをした。  部屋に上がったすぐ、いきなり玄関先の壁に押しつけられるように抱きしめられて。  城崎は中島の首の後ろに手を回し、後ろ髪を指先で梳くように撫でながら、顔を仰向けさせた。顔が真っ赤になるのを自覚しながら、うそつき、と訴えようと口を開き──その言葉を飲み込むように、優しく城崎は唇を塞いだのだ。  ……手をつなぐとこから始めるって言ったのに!  まるで愛撫のように何度も繰り返された甘いキスから解放された途端、半泣き状態で中島はそう城崎に訴えていた。城崎は「ごめん」と言って身体を離し、それ以上はなにもしなかったけれど。  戸惑うのも仕方がない、と中島は思う。中島の恋愛経験と言えば、高校時代に同級生と帰り道を一緒に帰ったぐらいの記憶しかないのだ。正直〝お付き合い〟がどういうステップで進むものなのかも、よく分からない。  付き合って初めてのキス以降は、授業料免除だとか奨学金のことを調べるのにバタバタしていた挙句、すぐに試験期間に突入してしまい、今に至っているわけで。  ──いやいや、試験は重要だから!  つい勉強の手をとめて、ぼんやりと城崎のことを考えていた中島は我に返って、慌てて目の前のテキストに向き直した。まずはこの試験を乗り切らなくてはいけない。  勉強は大変だし、テキストや資料ばかりを睨む毎日はうんざりだったが、不思議と中島はそれを投げ出したいとは思わなかった。……大きな夢じゃなくても、ただ目の前のことだとしても、〝目標〟があるのは悪くない。  そう、城崎と一緒に大学に通う──という目標があるから。  がんばろう、と中島は小さく気合いを入れなおした。  たとえ試験が大変でも、生活費は必要だから、バイトはしなければならない。  中島が大学に入ってすぐに始めた居酒屋のバイトは、立ちっぱなしだし酔っ払い相手だし、平日でも繁盛していて忙しく大変だったが、適度の要領よく愛想と人当たりのいい中島には性に合っているようで、結構楽しく続けていた。  たださすがに試験勉強で睡眠不足の上に、五時間超の立ち仕事はこたえる。へとへとになりながらバイトを終え、終電間際の混雑した電車に乗ると、すぐに中島は携帯を取り出した。  ──今バイトの帰り。つかれたー。電車超混んでるよー。  メールの相手はもちろん城崎だ。年明けに仲直りをして〝お付き合い〟を始めてから、格段とメールの数は増えていた。だがもともとメールが好きではないのか、城崎のメールはいつもどこかそっけなく、やりとりも短く終わる。  ──おつかれ。レポートは?  ──……まだ終わってない。今からやる。明日二時間目の授業間に合うように起こして。  ──わかった。でも無理すんな。  絵文字も顔文字もないメールだが、だからこそ城崎の気遣いが透けて見えるようで、中島はその短い文章を何度も読み返した。それだけでなんだか胸の中が温かくなって、疲れが軽くなるような気がする。  会いたいな、と思う。  家が近いのだから、会おうと思えばすぐに会える。だからなのか、逆に会いたいと言うには気がひけた。自分だけが試験中なわけでも、自分だけがバイトで忙しいわけでもなく、城崎だって一生懸命レポートをしているかもしれないのだから、ちょっとした気分だけでわがままを言うのはよくない気がする。  携帯を握りしめて、ふう、と中島は大きく息を吐いた。  せめて試験が終わったら、のんびり城崎と会いたいな。  ふとそんなことを思いついて、中島は急にどきどきし始めた。今は一緒に帰ったり、近くの飯屋でごはんを食べたりと、以前とほとんど変わらない。けれど試験が終われば春休みになるのだ。  春休みにデートとか。  うわ、とそれだけの想像に〝お付き合い〟初心者の中島はつい赤くなってしまいそうになる。  デートはいい案だと思う。けれどどこへ行けばいいのだろう。映画とか遊園地とか水族館だろうか。いや、そんな特別な感じじゃなくて、たとえばちょっと街を歩いたり、公園に行ったりとかでもいい──なんて妄想で頭をいっぱいにしているうちに、電車は自宅の最寄駅に着いていた。  改札を出て、またすぐ携帯を取り出してメール作成画面を開き、駅構内からアパートへ向かう慣れた道のりを歩きだしながら、メールを打つ。  ──駅着いた。帰ってレポートがんばるよ。試験が終わったら、  デートしようよ、とそのまま書くのがなんだか気恥ずかしく、中島は手を止めた。  そのときだ。 「中島、」  不意に横合いから名前を呼ばれて、わっと中島は驚いた。勢いよく声の方を振り返って、唖然と言葉を飲み込む。  駅構内の改札階を下りて、地上バスターミナルを通り過ぎるところだった。終バスも行った後なのだろう、人気のないバス停のベンチから立ち上がった背の高い人影があった。 「……城崎、なんで」  呟けば、どこか気まずそうに一瞬視線を逸らす。 「今から帰るってメールあったから、この電車だろうと思って。──コーヒー」 「え? あ、うん」  ぶっきらぼうに差し出されたのは、ここから少し離れたところにあるファーストフード屋のコーヒーだ。カップを受け取ればまだ熱々で、つい先ほど買ってきたものだとすぐに分かる。  ──う、わ。  ずいぶん遅れて、中島はカアッと全身熱くなるような気持ちを味わった。ぴょんぴょんと飛び上がりたいような、落ち着かなくて恥ずかしい、けれどすごく温かい気持ちだ。中島は自分より背の高い恋人をまっすぐに見上げた。感動すると言葉が短くなるのだと、初めて知る。 「……すげー、うれしい」 「ああ、」  変に謙遜するでもなく、城崎はただ頷いて。 「すげー、うれしい!!」  もう一度言って、たまらず中島は城崎の腕をとり、引き寄せるようにしてその胸の中に飛び込んでいた。コーヒーカップを手にしているから抱きしめるまではいかないけど──。 「っ、」  と思いきや、すごい勢いで中島は城崎の手によって、すぐさま引きはがされていた。ええ? と見やれば、城崎はなんとも言えない苦虫を噛みしめたような複雑な顔をする。 「バカ、駅前だぞ!」 「……あー、うん。ごめん」 「ほら、とっとと帰るぞ」  そう言って城崎が先に踵を返して帰り道を歩き始め、一瞬遅れをとりながらも慌てて中島はそれを追いかけた。隣に並び、横目で恋人を一瞥すれば、まだむっと唇をへの字に曲げている。  ……ああ、また機嫌損ねちゃったな、と中島はこっそりため息をついた。  城崎は人に見られるのが嫌なのだ。中島も別に人前を憚らずいちゃつきたいわけではないし、やっぱり男同士で目立つのはよくないのだろうな、とも思うけれど、城崎はそれ以前に極力人目につきたがらない。でも、こんなときに抱きつくこともできないんだったら、〝付き合う〟ってなんなのだろう。  じわりと小さくさみしい思いが湧いて、中島は唇を閉じた。最寄駅から居候している兄の部屋まで徒歩約十分の短い道のりをしばらく黙って歩く。やがて城崎の方から口を開いた。 「……レポート、まだずいぶんかかりそうなのか」 「うーん、もうちょっと、かな? なんか俺、文章書くの下手で。自分でも途中でわけわからなくなっちゃって、まとまんなくなっちゃって」 「田村のレポート、すごいうまいよ。一度見せてもらったらいい」  それはごく普通の世間話だったけれど、言葉に裏に城崎の優しさがにじんでいるのが分かって、中島は嬉しくなった。さっきの寂しい気持ちも追いやり、部屋に帰ってからもがんばれる気がしてきた! と、心ひそかに気合いを入れたところで、ふと我に返る。 「あ、そうだ。ねえ、城崎。試験が終わったらさ、」  デートしようよ──と、先ほど思いついたことを、けれどやっぱりそのまま伝えるのが恥ずかしくて、中島は言い方を変えた。 「ご褒美ちょうだい」 「──はあ!?」  ものすごく勢いよく城崎が振り返り、その思いがけない強い反応に中島はびっくりする。  なにか変なこと言っただろうか。きょとんと目を丸くした中島を驚いた顔で見下ろし、城崎が、うう、と言葉に詰まっている。 「ご……ほうび、ってなに」 「俺、城崎と一緒にどっか出かけたいな! どっかってどこか分からないけど」  中島の言葉に、ああ、とどこか安堵したように城崎が頷いて、中島もほっとしてふふっとつい笑みをこぼしていた。「なんだよ」と城崎が顔をしかめる。 「だって、カッコいい格好した城崎と歩くの、ちょっとなんか優越感? だし」 「は? しねえよ、あんな格好!」 「え、なんで!? せっかくのデートなのに!」 「嫌だよ、あの格好でおまえと一緒に歩くなんて」  本気で嫌そうに言うものだから、悲しくなるよりも、本当に城崎だなあ、なんて中島は感心してしまっていた。城崎はつくづく自分に正直だ。 「でもあれカッコいいのにな」 「っ、から! またそうやってバカみたいに褒めるから、それが嫌だって言ってんだよ!」 「じゃあ褒めないようにするからー」  そういう問題じゃない、と唸るように城崎が言ったが、その横顔はもうさきほどの不機嫌なものではなく、照れたような困ったような顔をしていて、手をつなぎたいな、と中島は思ったけれどやめておいた。  ……部屋はもうすぐ近くだ。  たった十分の、夜の散歩道。  二月の夜は本当に寒くて、しゃべれば口から白い息が吐き出され、無意識にちぢこめた背中が強張って重いくらいだったけれど、左手にしたコーヒーと、少しだけ寄り添うようにして歩く身体の右側がものすごく温かくて。  これが〝付き合う〟っていうことなのだろうか。  ──なんのかたちも確証もないけれど。 「……城崎、ありがとね」  部屋のすぐ目の前まで来たところでふと呟くように言えば、ああ、とやっぱりぶっきらぼうない相槌が返ってきて、中島はうつむいたまま小さく笑った。その少し照れた優しさを、素直に愛おしいと思う。  ……なのに、どうしてほんの少しでも寂しいと思ってしまうのだろう。  中島にはそれが分からなかった。
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