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「──それでここに来たの? なにそれ、なんかの冗談でしょ!?」  ノンと名乗った小柄な男が中島を前にして、そんな憤慨したような声をあげたから、中島は完全に委縮してスツールに座ったまま身体を縮ませた。  つい数日前に城崎に連れてきてもらったゲイバーだった。土曜日の深夜十一時過ぎのバーはかなり繁盛しており、賑わうバーカウンターの端を開けてもらって座らせてもらい、その隣にノンが座っている状況だった。  中島はバイト帰りにこの店に立ち寄ったのだった。城崎がいるかもしれない、という可能性のことはまったく念頭になく、ただマスターと少し話ができれば、と思っていた。  ──なにも知らないくせに簡単に言うな、と城崎が言った。以前、自分がゲイだと告白して、気持ちを爆発させたときのことだ。そのとき中島はなにも応えられなかった。  確かに自分はなにも知らない、分かっていない。……自分はゲイではないから。  だからだろうか、と中島は考えたのだ。彼があれほどまでに頑になるその感覚が分からないのは、自分がゲイではないから。そういう世界のことが分からないから。無知だから。  なら、せめてその世界のことを少しでも知れれば、と思って足を運んだのだ。そこで運よくというべきなのか、マスターだけでなく顔の見知った男がいて、さらに彼が驚いて「なにしにきたの?」と声をかけてきたところだった。  ゲイ社会について知りたくて来た、と素直に答えれば、ノンはすかさずカウンターの客に声をかけて場所をあけさせて、中島をスツールに座らせた。……この人は一体なにものなんだろう? きっと常連客というものなのだろうが、それにしてもずいぶん強引だ。 「っていうことは、もしかして今日ここに来たの、圭は知らないの? ちょっと待って、君、ノンケだよね? ──あ、とりあえずマスター、ジントニック二つ!」  途中でノンが気を取り直したように、カウンター越しにマスターに声をかける。それからしばらく、カクテルが出てくるまでノンは黙り、中島も気まずく口を閉じた。やがてカクテルが出てくれば、ノンは一口それを含み、ふう、と大きくため息をついた。 「……で、知りたいってなにを? っていうか、なんでこんなところまで来ているの?」 「いや、あの」  責めるような口調に思わず怯む。だけどここで逃げてはいけないと、中島は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。 「なんていうか。その、俺は、ゲイじゃないから、……そういうルールとか礼儀とかよく分からなくて、一緒にいてどう振る舞うのがいいかとか分からなくて。でも、そういうの知らないことで相手を傷つけたりするの嫌だなって思って。少しでも知った方がいいかなって……」  ──そうしたら、あんな苦しそうな顔をさせないで済むようになるんじゃないか、と思って。  最後はほとんど呟きになって落ちた。両手でグラスを包み、バーの喧騒に囲まれながら、中島はつらそうに顔を歪める城崎のことを想う。  苦しめたくない。でもそばにいたい。そのために自分はどうしたらいいだろう──。  と、不意をついて、ガツンッと突然テーブルにグラスを叩きつける音がして、中島は驚いて隣を振り返っていた。 「ああやだやだ! だからノンケは嫌なんだよー。人の気も知らないでまったく!」  気づけば、ノンがジントニックを一気に飲み干していた。  怒っているのか呆れているのか分からないが、彼の迫力に圧されて、とりあえずすいませんすいませんと謝りたくなる。が、はたと気づいて、おそるおそる中島は口を開いた。 「……あの、ノンケってなんですか」 「そっから説明しなきゃいけないの!?」  驚愕におののいて、ノンががっくりとカウンターに肘をついて頭を抱え込んだ。  やっぱり自分がよく分かってないからダメなのか、と肩を落とせば、すぐにノンがどこか苛々した様子をしながらも身体を起こし、マスターに次の一杯を頼んでから、中島の方を向いた。 「ノンケっていうのは、普通に女の人を好きになる、ゲイじゃない男のことです。きみもそういうことでしょ。つまり、きみは圭と付き合ってても男が好きなわけじゃないんでしょ。今まで普通に女の子が好きだったわけでしょ。普通にそこらにいる男の身体とか見て、欲情したりしないんでしょ?」 「……し、ません、けど」 「だから、本当にそういうノンケって、自分がどれだけ残酷か分かってない」  容赦のない彼の言葉に、どきりと心臓が鳴った。  ──ゲイではないことが、なにも知らないことが、それほどに相手を傷つけるのか。  だとすればそれは絶望的な隔たりだった。  どうしようもない。自分は男が好きなわけではないし、男の身体を見て欲情する感覚なんて想像できない。城崎は男で同性だが、……城崎相手には身体が熱っぽくうずうずするような感じにはなるが、彼だけが特別なのだ。  血の気が下がっていくのが分かった。言葉もなく中島は隣の男をぼんやりと見返したが、ノンは中島の反応に気づいているのか、いないのか、そのまま言葉を続ける。 「テレビでどれだけオネエキャラがもてはやされたって、いくら個性を重んじる寛容な社会だって言ったって、実際はそう簡単なものじゃない。普通に生きてて、人にそうだと知られるのは普通に怖いよ。それが親しい相手ならなおさらだ。ただの友人だろうが、好きな相手であろうが、親しく思っている相手にもし軽蔑されたらって思ったら、本当に怖いよ。……だけどノンケはそんなこと全然気づかない」 「…………」 「本当にノンケを好きになるこっちの身にもなってみろっていうの。嫌われるんじゃないか、軽蔑されるんじゃないか、いつだって不安で怖くてびくびくしてるのに、人の気もしらないで無邪気に声かけてきてくるんだから、本当に最悪!」 「──ノンちゃん、ちょっとそれ自分の話になってない?」  まくしたてる彼の隣で顔色を失っている中島に助け船を出すように、新しいジントニックをカウンターにさしだしながら、マスターが苦笑しながら口を挟んだ。  むう、とノンが唇を曲げる。 「なに言ってるのマスター、一般論だよ。俺が言いたいのはとにかくこの子が超わがままだってこと!」  急に具体的に自分のことを指し示されて、中島はびくりと肩を竦ませた。  ──わがまま?  中島の隣で、ノンは出された細長いスナックを指でくるくる回しながら、マスターに訴え続けていた。 「だってさあ、同性同士っていう過酷な条件のなかで、好きな人に好きと言われるだけで奇跡なんだよ? そんな奇跡を前に、ルールとか礼儀とか言ってるの、超贅沢な悩みだと思わない? せっかく掴んだ奇跡を手離すなってーの。もったいない。っていうか、俺がそうなりたいよー」 「────」  中島はふと、隣に座っている男を見やった。  その気配を感じたのか、グラスを傾ける手を止めて、ノンがちらりと横目で中島を見返してきた。  ぶれないまっすぐな眼差しを受け止めていると、急に視界が明るくなったかのように思えてきて、中島は目を瞬かせた。  ──別々の人間同士なのに、気持ちが交差したとき、すごいなって。  友人の言葉が閃くように脳裏をよぎった瞬間、中島はハッと我に返って立ち上がっていた。 「あの! 俺、帰ります!」  それを聞いたノンが笑って、グラスを持ち上げた。 「はいはい、とっとと帰りなさーい!」  閉まる扉の向こうでそれを聞きながら、中島は早足で駅に向かっていた。  早く早く早くとひどく気持ちが逸っている。  自分の悩みなんかより、今はとにかく城崎に会いたい。きちんと顔を合わせて話をしたい。  きっとそれが正解だった。  大切なのはこの奇跡で、すれ違いなんかじゃない。  けれど、この逸る気持ちをメールや電話ではうまく伝えられそうになくて、中島は携帯を握りしめながら、電車の中でうずうずと最寄駅に帰りつくのを待ちかまえた。  会いに行こう、と思う。嫌がられてもいい。もちろん傷つけたくないけれど、苦しめたくないけれど、今は会うことの方が大切だと思う。  中途半端に胸の内を打ち明けたままではなく、気持ちの全部を最初から伝えたい。  電車が駅について扉が開けば、いつになく先を争うように中島は電車を降りていた。頬を切る風が冷たい。けれど寒さに構わず、ホームから改札階へ下りる階段を駆け下りる。  ──早く会いたい。今すぐ会いたい。  改札を出て、さらに地上へと続く階段を早足で下りた。城崎の部屋までは歩いて十五分ほどだ。走ればきっともっと早く着けるはずだ。地上の人気のないバスターミナルを横目に、中島は急いで住宅街へと続く通りへと足を向ける。  そのときだ。 「中島!」  大きな声が名前を呼んだ。  ほとんど走る勢いで歩いていたから、立ち止まるのにつんのめってバランスを崩しそうになりながら中島は足を止めていた。  声を知っていた。間違えるはずがなかった。  けれどすぐには信じられなくて、ひどく呆然と声のした方を振り返っていた。 「────」  なんで、と思う。  けれどそれは、今までの〝なんで〟とは全然違った。  もっとずっと、甘酸っぱいような切ないような──そう、それこそまるで奇跡のような。 「……城崎」  オレンジ色の外灯がぼんやりと照らすバス停のすぐそばに、城崎が立っていた。
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