1人が本棚に入れています
本棚に追加
風鈴の音と救急車のサイレン。
それらがとけるように混ざり合う瞬間を鮮明に覚えている。
小二の夏休みが開始してすぐのこと、母が倒れた。その際、頭蓋にひびが入り、軽い脳震盪を起こした。母は全治1ヶ月と診断され、そのまま入院を余儀なくされた。
青天の霹靂とはまさにこのこと。
わたしは何枚も書類を書く父の横に座り、そわそわと落ち着きなく両脚をぶらつかせていた。
やがて祖母が来た。
祖母は夏休みなのだから、そのままうちに来ればいいとわたしに言った。
わたしは父を仰ぎ見た。
家の一切が出来ない父。仕事人間で、小学生と違って休みなどない。流石に「妻が倒れた」と話せばそれなりに融通は効くかもしれないが。
頭の中に、飲むものも飲めず、食うものも食えずで乾涸びている父の姿を浮かべるのは、小学二年生でも容易かった。
「行ってき。お父さんはひとりで大丈夫やさけ」
頭を撫でながらそう嘯く父。ぽつりと汗がついた眼鏡の奥の瞳が、小さく揺れていた。それが、まるで夜の海のようで。
「ううん、うち、お父さんとおるわ。この人、家事一切出来んけぇ」
気がつけば、そう声を張っていた。
父も母も忙しく、いわゆる『鍵っ子』だったわたしは、小二にして既にいくつかの料理レパートリーを持っていた。そんなに大したものは作れないけれど、飢えを凌ぐことくらいは出来る。コンビニやスーパーもあるし。自分にそう言い聞かせるように、こくりと頷いた。
祖母はなかなか折れなかったが、最終的には父の「やったら、昼と夜は頼む。おれも出来るだけ早く帰って来るさけ」という一言で、大きく肩を竦めて、不承不承ながらに納得してくれた。
翌朝、父の朝食を作らねばと階下に降りたわたしを出迎えたのは、既にキッチンに立ち、見るからに苦戦している父の姿だった。
「あちっ! あちちぃ!」
ラップの上には白い米。つやつやしたひと粒ひと粒から湯気が立ち昇っている。
見れば、炊飯器の蓋が開きっぱなしだった。表示されている保温時間が0であるのを見るに、炊きたてほやほやらしかった。
「お父さん、米ら炊けたん?」
ようやく背後に立った自分の腰までしかない背丈の娘に気づけた父は、
「おう。おはよう。炊ける炊ける。お父さんはな、がいなこと器用なんじょ」
言葉とは裏腹の不器用極まりない手つきで、ラップに乗せた米を、もっちらもっちらと握って見せた。
見た感じ水分が多すぎてラップにべっちょりとくっついている。あれでは開いた時に、丸くなっておらず、直接口をつけて犬食いのように食べるしかないだろう。
わたしは、いつかの祖母のように大きく肩を竦めた。
やがて、コトリ。目の前に二枚の皿が置かれた。
ひとつの皿の上には、ラップに包まれた(ように見える)おむすび。
もうひとつの皿の上には、焦げた玉子焼きが乗っていた。こちらもお世辞にも「美味しそう」とは言えない歪な形をしていた。
「さぁ、爽子。朝ごはんにしょか。足らんかったら、おかわりもあるよってによ」
おかわりするかなぁ。思いながら、両手を合わせ、ラップを剥く。案の定、米はべっとりとラップに付いていて、わたしはお箸でそれを寄せ集めた。
口に運んで、気づく。
「あれ? これ、何も入ってへんのに、なんか……甘じょっぱい気ぃする。これ、お塩?」
父の顔が目に見えて明るくなった。
「せや。塩むすび言うてな。塩だけを入れて握るねん。夏はイチに水分、二に塩分やさけ、暑い時分にはぴったりや。更に握るだけやさけに初心者のお父さんにはぴったりじょの」
饒舌になった父を見ながら、べたべたの塩むすびをせっせと箸で集めて口に運ぶ。咀嚼する度に米の甘さと塩のしょっぱさが混ざりあって、どんどん食べ進められる味になっていることに気がついた。
「お父さん、美味しいわ。これ。何も入ってないさけ、ただ米の味するだけやと思たら。うん、美味しいわこれ」
わたしはそう繰り返しながら、不思議な味のする米を咀嚼した。
うきうきとした口調で父が、
「せやろ。せやろ。せやさけお父さんに任せとけ言うたやいしょ」
昨晩聞いた覚えのない単語を口にした。
「あ、玉子焼きも食べときよ。これの難点はの、タンパク質がとれへんことにあるんや。玉子は良質なタンパク源やさけにな。更に玉子焼きにも醤油入れて塩分増やしちゃる。これで暑さ対策は完璧じょ」
なるほど。この盛大な焦げは、醤油由来か。数ヶ月前に母に玉子焼きを教わった時、同じ失敗をおかしていたわたしは、笑いを噛み殺しながら、玉子焼きを箸でつまんだ。
箸を伝わる感触でわかった。
とにかく表面が固い。
色は黄色と黒の斑模様で、巻き終わりは早くもぺろりと剥がれてきている。
おおよそ美味しそうとは言えないそれを、えいやっと口に放り込む。
ひと口めで「じょり」と焦げを噛む音がして、すぐに焦げの下にあるふんわりとした玉子が口の中に、広がらなかった。
黒焦げの中は同じくらい固く、玉子の風味もほとんど損なわれている。
「どや? 美味しいか?」
わたしは無言で父を見る。睨むに近い。
「…………」
父が無言で眉を八の字にしたまま、玉子焼きを口に入れた。ひと口めはやはり「じゃり」という音がした。父はすぐにお茶を飲んだ。
あ、ずるい。わたしも飲む。
心の中でそう呟いて、同じくお茶を流し込む。
タン、と湯呑みを置いた父が一言。
「うん。まぁ食えるやな。まぁこんな感じでやな、わえがお母さん帰って来るまで毎日作ったるさけに、安心せぇ」
わたしはまたべちゃべちゃのご飯を箸で寄せ集めながら、苦笑いした。
次の日も、その次の日も、父の作る朝食は変わらなかった。たまにインスタントの味噌汁がつくこともあったが、いつも食卓に並んでいるのは、塩むすびと玉子焼き。
理由は明白で、
『とにかく栄養バランスがいい』
『手軽に食べられる』
『塩分がしっかり摂れる』
の三拍子。ほかにも条件を満たすメニューはあると思うのだが、父はなかなかに頑固なひとだったので、うちの食卓には、その二品が並び続けた。
毎日作っていると上達もするもので。
母の退院日に出された塩むすびは、きちんと三角をしていたし、焦げることのない見事な黄金色の玉子焼きが、ちょこなんと皿の上に綺麗に巻かれて置かれていた。
母が帰宅してからの父は、また家の事の一切を母に任せ切りになった。
そのため、朝食に塩むすびと玉子焼きが出て来ることもなくなった。
ややもすれば、あのひと夏の出来事は、母が急に欠けてしまったわたしが都合良く見ていた夢だったのでは? と思うほどに、以後父がキッチンに立つことはなかった。
それでも、覚えている。
べちょべちょながらに、米の旨みが最大限まで引き出されていた塩むすびと、じょりと口の中で砕けた焦げの苦みのあとにきた僅かに残った玉子の風味。
徐々に上達した父には申し訳ないほどに、最初の『塩むすびと玉子焼き』を、鮮明にわたしは覚えている。
「……ん?」
パチリ。目を覚ましたわたしは、ゆっくりと二度瞬きをした。
なんて懐かしい思い出を夢に見たのだろう。
体を横に倒して、枕の下に潜り込ませたスマホを手に取る。
午前八時十五分。
一瞬焦りかけ、表示された土曜の文字にほう、と息を吐く。
鎮まらない動悸を道連れに、重い足取りでリビングに行くと、
「おはよう。よく寝てたね」
昌磨が、食卓に何やら並べていた。
コトリ。チリン。コトン。チリン。
彼の性格のように物静かに置かれていく皿の音。重なるようにして、室内に吊るした風鈴が鳴る。
夏が暑すぎて自然の風に靡いて鳴ることはもうなくなったけれど、それでもやっぱり夏と言えば風鈴だよな、と実家から送ってもらったものを、窓の内側に吊るしておいたのだ。
ああ、この音かな。あの夢を見たのは。
思いながら、机の上に目を向け、喉をひとつこくんと鳴らした。
「塩むすびと玉子焼きや」
思わず口に出していた。
昌磨の眉が跳ねる。
「え。すごい。なんで塩のおにぎりって分かったの?! エスパー? さわちゃん、エスパーなの?」
びっくりして目を見開いた彼に、
「慣れてへんひとが作るおにぎりの中身はなしで、かわりに塩がふられてるって決まっとる」
適当なことを返す。
「でもねさわちゃん、塩むすびって夏にぴったりなんだよ」
言いながら昌磨は、わたしに椅子をすすめた。控えめに後ろに引かれた椅子に腰掛け、昌磨を真正面から見つめる。
ああ、なんやろ。これから言うことがなんやわかる気ぃするで。
口元を限界まで緩める。笑いを堪えるのに必死だった。
「塩むすびって、塩分がしっかり摂れるでししよ? しかも作るのも簡単なら、食べるのもとっても手軽で、更に塩のしょっぱさが米の甘さを噛めば噛むほどに促進する。米の良さをしっかり引き出す。でも、残念なことに、タンパク質が足りてないんだ。だからね、ほら」
昌磨がわたしの方に、玉子焼きの乗った皿をずいと押し出した。
もちろん、醤油由来の焦げがついたやつだ。
「玉子焼きで、良質なタンパク源を補って、簡単だけど最強の夏の朝食のできあがり!」
私は玉子焼きを箸でつまみあげた。
すぐにぺろんと巻き終わりが捲れ、形が崩れる。
その瞬間、わたしは堪らずに吹き出した。
「ふふっ。あはっ! ふふはははっ。あーーもーーおっかしーー! 」
当然、わたしと塩むすびと玉子焼きのエピソードを知らない昌磨は、ぽかんと目を丸くするだけだ。
ようやく笑いが収まったので、種明かしをすることにした。
「いや、ごめんごめん。あんな、実はその、塩むすびと玉子焼きに対して、まったく同じことを言ったひとがな、過去に、おってん」
「え」
昌磨の顔から一瞬で笑顔が消える。
きっと、元カレか何かを想像しているに違いない。
「だ、だ、だれ?! だれそいつ!!!」
昌磨が目をぎゅっと瞑って珍しく声を荒らげた。焦りが伝わってくるが、違う違う。そうじゃない。と、片手をひらひらと目の前で振る。昌磨が首を傾げた。
わたしはもう一度笑うと、
「会ってみぃひん? そのひとに。そのひと、片桐雄一言うて、和歌山に住んでんやけど」
「かたぎ……わか……え。えぇえええぇええ?!!」
昌磨が慌てふためく。
それもそのはずで、片桐雄一は、紛れもなくわたし、片桐爽子の父の名前だからだ。
目を白黒させてしどろもどろになった昌磨を見て、わたしは心の中で話す。
『お父さん、わたしが一生一緒にいたい思てるひとは、お父さんに、よぉ似ちょる』
部屋の中に吊るした風鈴が、チリンと鳴った。
【了】
最初のコメントを投稿しよう!