大人のシャボン玉

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大人のシャボン玉

 雑居ビルの少し奥まったところにある扉の上に「BAR VENT」と浮き出した文字で看板が掛かっている。  少し重い扉を引いて中に入る。 「いらっしゃいませ」  この店、何年も何度も通っているが、店に入ったときのマスターのあいさつは、決して「いらっしゃい」と短くはならない。誰にであっても、「いらっしゃいませ」と「マセ」が付く。顔なじみになったら少し砕けて「マセ」無しでもいいのではと思うけれど、必ず付けるのがマスターの流儀なのだろう。「そういうところが、いつまでも水くさい感じがする」と嫌っている人もいるようだ。  片瀬はその点、何も問題は感じない、むしろそれでけっこうだと思っていた。 (変に距離を詰められるよりずっといい)。そんな風に思っていた。  彼がカウンターのいつもの席に腰を下ろすと、「マスターおまかせ」のウイスキーがロックで出て来る。 「ん。これは初めての香りだね。いい香りだ」 「そうでしょう。甘すぎない爽やかな。香りだけじゃ無い、飲み口もいいでしょう?今年のそれのブレンドは傑作だと思います」 「うん。すごくいいね、気に入ったよ。しばらくこれを続けてもらおうかな」 「承知しました」  マスターは薄く微笑んで会釈した。  片瀬は2杯目のロックを飲んでいた。 「こういう感動も、ストレス解消だね。ぼくには特にそう感じる。なにで、どうやって作り出したのか、まるで見当も付かない。それなのに、こんなにグラスの中の香りを深く吸い込みたい。これを作り出した、どこかの誰かに感謝しないとイケない」 「ストレス解消ですか。まあ、お酒で解消というのは定番ですね……そうだ、ストレス解消と云えばおもしろいものを手に入れたんですよ。どうです、やってみますか?」  マスターは振り返って棚から何か取ると、液体の入った、ちょうど手に乗るくらいのプラスチック容器と小さい輪のようなものが先に付いたストローを片瀬に見せた。容器にはこう書いてある。 『大人のシャボン玉』 「なんなのです、これ?」僅かに添書の高くなった声で片瀬はマスターの顔を見た。 「シャボン玉って、ストローに、ただ息を吹き込むだけでシャボンの玉がたくさん出たり、大きいのが作れたり、いろいろ遊べて子どもは大好きでしょ?それの「大人向け」ってことです」 「たしかに、こういう容器に入った、シャボン玉飛ばすヤツ?は見たことあるけど、大人用ってのがおもしろいね。なんか派手なヤツが出来るとかかな?」  片瀬は、自分の手には受け取らずマスターが差しだした手の上のそれを探るように見た。 「どうです、いまなら時間もあるので、ちょっと外に出てやってみますか」  マスターに誘われるまま、片瀬は店の裏口から外に出た。  そこは、いろいろものが置いてある狭い路地で、ほかの店もこの路地側に裏口が通じているのだろう。薄暗い街灯が一個だけ灯っていて、路地の先は表通りだ。そこには人の往来が見えた。  マスターは『大人のシャボン玉』と黄色地にピンクの文字のプラスチック容器の口をひねって開け、それとストローを片瀬に渡してくれた。 「ストローの輪っかが付いたほうが先で、そこを容器の中の液体に浸けて吹いて見てください」 「ああ、うん。それは、むかしやった覚えがあるのと同じだね。懐かしいなぁ」  片瀬は、ストローに口を付けて軽くフゥッと吹き出した。直径2センチくらいのいくつものシャボン玉が立て続けにストローの先から飛び出し流れてゆく。そして急に風に乗って空高く舞い上がって行った。 「ははぁ。なんか懐かしいな。ほんとこんなことするの何年ぶりだろう。ちょっと吹き方が強かったかな。……ああ……でも」 「でも?どうです?」そう云うとマスターは片瀬の顔を見て含むように笑った。 「なんだろうこの感じ……変な気分だよ。すごく気持ちが楽になるっていうか、なんともいえない」云いながら片瀬は、またストローの先に液体を付けて、今度はゆっくり慎重に吹いてみた。  今度はゆるゆると大きなシャボン玉が出来てゆく。彼はそのシャボン玉が壊れないように、慎重に息を吹き込む。そしてもうこれ以上大きくならないと踏ん切りを付けて、ヒョイとストローの先を軽く振る。すると、ブルンと揺れてバレーボールほどもあるシャボン玉がストローの先を離れ、ゆっくりと彼らの前を漂い始めた。そして、片瀬は、ストローを持った右手を胸に当て、目を見開いてシャボン玉の行方を目で追い、そしてマスターの顔を見た。 「なんていい気分だ。フゥッと吹いていると、なにか自分の体の中のイヤなものが外に出て行く、そんな感じがする」 「そうでしょう?それが、『大人のシャボン玉』ってことなんですよ。これはね、息を吹き込むと自分の腹に溜まったストレスがシャボン玉に入って行くんです。そうして膨らんだシャボン玉は、こうして風に乗って、どこへともなく消えていく」 「そう、そんないいものがあるとは、驚いた……。とにかくこれはいいね。病みつきになりそうだよ」 「でも、あんまりやっちゃいけません。これをやりすぎると、ボーッとしたままになって、腑抜けたように、しばらく何も出来なくなってしまうんです」 「そうなの?人間、少しは常に軽いストレスで緊張していないとイケないってことなのかな?」 「そうなんでしょうかねえ……」  片瀬とマスターは、ゆっくりゆっくり空に昇っていく、さっきの大きなシャボン玉を見あげていた。  片瀬は小さくなっていくシャボン玉を見上げながら、 「ところであれは、割れると、中に吹き込んだストレスって、どうなるんだい?」 「いや、それはわたしも知りません……果たしてどうなるのやら」  片瀬とマスターは晴れやかな顔で笑っていた。 一方。とある政府機関では、 「所長。東京上空の大気に未知の物質が含まれている件ですが……また検出されました」 「ううん。この物質は一体どこから来たのか、どこから発生しているのか……引き続き、調査を続けてくれ」 「はい、わかりました」 「地球に何か悪い影響が無ければいいのだがナァ」  科学者は首をかしげて報告書に目を落とした。
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