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消費社会
1、
人間の完全なコピーが作れる時代が来た。今生きている個体なら、全く同じ人間を作り出せるようになったのだ。ただ、記憶などは空っぽで、その点は、「生まれた」あとに情報を蓄え成長させる。
二人の人間。構造的に同じ個体がこの世に存在する。
このことは、人間コピー技術が登場すると同時に大きな問題として識者を集めて話し合いがもたれ、法整備が急がれた。
「原型(オリジナル)、複製(コピー)のどちらも同じ権利を持つのか」
「コピーは人間か」
それらのことが話し合われたが、まずすぐに決められたのは、
「人間としての権利はオリジナルが有する」
「コピーは人間では無い。人間として認めない」ということだった。
2、
一組の夫婦がいた。彼らは、この「人間のオリジナルとコピー」の問題が起きたとき、すでに自分たちの娘をコピーしていた。名前を美里という。20歳。
彼らは、20年間の子育てを振り返り、失敗だったと感じていた。もう一度やり直したいと考えた。そこでコピーにミサトと名付け、いま一度、娘に対する愛情を与え、教育を施した。結果、1年ほどでこの夫婦の理想とするような聡明で素晴らしい娘に成長した。
オリジナルの美里は、十代の終わりには身を持ち崩し、いかがわしい人間とつき合うようになり、クスリに手を出し、何度か警察沙汰にも成っていた。父母にしてみれば、「これでもオリジナルが尊重される」ということは、受け入れがたかった。もはや家にも寄りつかず、たまに顔を見せれば金の無心しかしてこないオリジナルと自分たちに愛情を持って接してくれる親思いなコピー。どちらを愛せるかは明白だった。
だが、法律はコピーに冷たい。オリジナルとコピーの両立、共存さえ許さなかった。だが、細かい点は法整備が遅れていた。コピーは人間で無いばかりか生物としての規制にも含まれなかった。ミサトは、この時点でただの「モノ」だった。
3、
何もせずに黙っていれば、このまま生活できる。どうせオリジナルは家に寄りつかない。コピーとの生活は幸せ。それでいいのだ。だが、美里の存在は「いろいろと煩わしい」
「最終的には、あの子がいなくなれば……」
それは、ミサトを作ったときから考えていたことだ。誰でも思いつく結論。
「美里を消してしまえばいい」
そういうことだった。
父と母は顔を見合わせて何かを決意した。
美里はミサトによって殺された。
ミサトは人間ではなく、ただの「モノ」だから罪は問われない。これは単なる「事故」に過ぎないのだ。
法律がコピーに権利を認めなかろうが、この夫婦が親として愛せる娘であることが重要なのだ。これで晴れて、コピーはオリジナルに昇格した。
どうせもう誰も、どちらがオリジナルだったかさえ分からないのだから。
あとからいい物が出来たら、古いもの、粗悪なものは捨てて、新しいいい物を手に入れる。それこそ正しい消費活動と云うべきでは無いか。
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