娘と悪魔の契約

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娘と悪魔の契約

1、  18才になる娘がいた。彼女の母親は早くに亡くなり、父親はすぐに後妻を迎えた。彼女の継母ということである。  その継母は、彼女を疎ましいと思っていて、いつも邪険に扱った。彼女がほんの小さいときから家中の掃除をさせたり、買い物に付き添わせて荷物持ちをさせたりした。そして何か少しでも失敗すると、 「役立たずだね」  なじるのだった。  娘は365日、24時間、眠るとき以外はずっとそんな風に扱われた。  父親と継母の間に子が生まれると、彼女に対する風当たりも一層強くなった。父親はそれでも何も云わなかった。云えなかったのが本当かも知れない。 「おまえも18になったんだ。本当ならサッサとこのうちを出て行ってもらいたいところだけれど、かわいそうだから置いてやっているのよ。感謝しないさいよ」  継母はそんな風に恩に着せて、娘に更にいろいろな用を云い付け働かせた。  娘は母屋には住まわせてもらえなかった。庭の隅にある粗末な小屋に寝暮らしていた。  彼女は遊ぶ時間など無かったから友達もいなかった。夜、小屋で一人になるときが唯一自由な時間で(ただし、夜中でも継母にベルを鳴らして呼び出されなければだが)あったから、小屋の周りにいる虫やら小さな動物やらが彼女の友達だった。 2、  いつのころからか、夜になると彼女の小屋の窓辺に茶色と白の毛並みの美しい猫が訪ねてくるようになった。彼女は猫にやる餌さえ持っていなかったが、猫は彼女によくなついて、撫でたり話しかけたりした。 「わたしはなんでこんな生活をしなければならないのかしら。でも、もう継母(かあ)さんがいうとおり、18にもなったのだから、ここを飛び出してどこかへいけばいいのかナ。生きているだけで、望みも夢もない今よりも、旅に出て歩き暮らした方が、よほど楽しいことでしょう」  猫にそんなことを話したりした。そして夜空の星を見上げた。  彼女は絶望していた。もうなにもかもどうでもいいような気持ちになっていた。  ある日の夜、庭の小屋に帰って、疲れ果てた彼女が眠っていると、 「もしもし、お嬢さん、お嬢さん」  男の小声で話しかけてくる者がいた。彼女はビックリして飛び起きた。見ると枕元に全身真っ黒で、ねじくれた角を生やし、しっぽのある見るからに邪悪な者が立っていた。彼女は更にビックリし恐怖した。 「ああ、驚かせてしまって悪かったね。わたしはね、あなたも聞いたことがあるかもしれないけれど悪魔っていうもの」 「悪魔!」 「そう、悪魔。あなたに少し話があってきたんだよ。あなたは自分の人生に絶望しているね。そういう人がわたしは好み。そういう人の心につけ込んで楽しむの」 「ひどいわね」 「うむ、そのとおり。最高の褒め言葉だよ。いやそれでね、話というのは、あなたに提案があるんだ」 「提案?」 「そう。あなたはもうすっかり人生に絶望しているから、これ以上あなたを苦しめるのは難しい。そこでさ、少しばかりあなたにいい思いをさせてあげたいと思ってね」 「わたしにいい思い?……わかったは、それでそのあとにひどい目に合わせるつもりなのね!」 「おお、あなたは勘が鋭いね。そのとおりだよ。いいことのあとにはイヤなこと。それが人生ってもんだろう? あなたの場合は、これまでずっとイヤなことばかりだから、なにもないよりはましだろう。いま完全に絶望しているんだから、つまりそれは『いいことが起きたあとに元に戻った』だけってことじゃないか」 「まあ、そうなるのかしら」 「そうだよ、どうだい。今よりはずっとましな幸福(しあわせ)を経験することが出来るのさ。契約してみるかい?」  娘は少し考えていたが、それでも自分になにかいいことが起きるなんて、いままでに考えたことが無かったので悪魔の提案は魅力的に思えた。 「いいことって、どんなこと?」 「それは契約してからのお楽しみさぁ~。おしえてしまったら、楽しみが無いだろう?」  悪魔は目尻を下げて、その醜悪な姿がかわいく見えるような、微笑みを作った。 「わかった。契約するわ!その代わり、とびきりいいことをお願いよ!」 「なんだい、けっこう欲深いな。まあいいよ、契約成立だ。その代わり忘れるんじゃないよ。いいことが終わったら、あんたにとんでもないことが起きるってことを!」  悪魔はそう云い終わるとドロンと消えていなくなった。 (悪魔と契約してしまった。きっと、優しかったお母様が知ったら、私を叱るわね……)  そんなことを思いながら、彼女は、朝方になるまで寝つけずに過ごした。  翌日の夜のこと、やっと仕事を終えた娘は小屋に戻ってきた。すると小屋の前に、いつも遊びに来る例の猫が座っていた。 「あら、きょうは早くに遊びに来たのね」  娘がそう云うと、猫は突然、熊ほどに大きくなって娘の前に背をかがめた。それを見た娘は目を丸くしながら、 「あたしに、背中に乗れというの?」  娘がそう云うと猫は更に少し頭を下げてゴロゴロいった。 「わかったわ、乗るわ」  娘が猫の背中に恐る恐るまたがった。その背中はとてもとても暖かくフワフワしていた。  猫は大きく飛び上がったかと思うと猛スピードで走り出した。辺りの家やらビルやらの屋根の上をポンポンと飛び跳ね、越えていった。娘は猫の背中に必死にしがみついていた。そこら中を走り回って、どこをどう行ったものかまったくわからないまま、しばらくすると、どこかの知らない森の中に着いた。  猫が木々の切れ間の広場に降り立つと、そこでは大きな焚き火が赤々と燃え上がっていて、周りで白黒茶色、いろんな色、いろんな模様の猫たちが楽しそうに踊っていた。そして娘を見つけると、「おいで、おいで」と仲間に誘い、彼女に見たことも無いごちそうを振る舞ってくれた。娘はおなかいっぱいごちそうを食べて、そして猫たちに誘われるままに、焚き火の周りで一緒になって踊ってみた。それはそれは楽しかった。こんなに楽しい気持ちは生まれて初めてだと思った。そして、おなかもいっぱい踊り疲れて朝方に眠りについた。そんなことが三日三晩のあいだ続いた。  三日目の夜が明けるころ、 「わたし、そろそろ帰らなければいけないわ。あんな家でも、帰らなければと思うわたしは、変ネ」  娘は一人笑った。  帰り道もやはり、例の猫が娘を背中に乗せて、夜明けの光の中を飛ぶように走り家に着いた。 「私が三日もいなくなって、きっと怒られるわね」  彼女はそう思ったが、ついた場所はどうも様子が違った。少し古いが立派な見たことも無い家が建っていた。 「なんだか見たこともないお屋敷だわ。私が住んでいた小屋も無いわ」  娘が不思議がりながら朝を迎え、しばらくすると一人の中年の男が屋敷の門の外から現れた。男は娘を見るとニコニコと笑って近寄って来た。 「あなたを探していたんです。やっと会えた。わたしは弁護士で、残されたこの家と土地、そのほかの財産をあなたに相続していただくために来ました」 「え、どういうことです?!」  娘は目をぱちくりさせて弁護士という男を見た。 「ええと。あなたはよく事情をご存じないのはしかたがないことです。ここに住んでおられた方は先月お亡くなりになりまして」 「ええ?先月?亡くなった?」 「はい、この家は先代のご主人の後妻のお嬢様がお一人で住んでおられたのですが、先月、老衰でお亡くなりになりました。そして相続人はあなたお一人なのです」  弁護士は書類を出して見せた。先月まで住んでいたという人の名は彼女の父親と継母の間にできた子の名前であり、彼女はそれは間違いないと思った。だがその人は、先月100才で老衰により亡くなったという。つまり、彼女が三日三晩、猫たちとおもしろおかしく過ごしている間に100年が経っていたのだ。  娘は驚いて渡された書類を持ったまま弁護士の顔を見つめ、空を仰いだ。 「あの悪魔の云った、『いいことのあとに起きる、とんでもないこと』って、このことなのね」 「え、なんですか?悪魔?」 「いえいえ、何でも無いんです、こっちのことです」  彼女は、今、もう周りに誰も知る者がいない天涯孤独の身の上になった。そして、受け取った財産を元手に生きていくしかなかった。  ああ、でも、あの猫はやっぱり夜になると遊びに来るらしい。
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