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3.マニキュアを塗る女
「あんたも聞いたんでしょ? 私の噂」
女は俺の顔を見ようともせずにそう言う。俺は無言で頷いた。
「嫌なことがあった時にさ、寝て起きたらスッキリしてることあるでしょ? あと、楽しいことがあった時、次の日起きたらそれがとてもいい思い出として心に残っていること。あれね、私のおかげなのよ。毎晩十人だけ話を聞いてあげてるの」
「十人」
「ええ、指は十本しかないからね」
女は可笑しくもなさそうに笑った。足の指にまで塗るのめんどいし、と。
「で、あんたは何を話しに来たの?」
この言葉は俺に向けられたものではなかった。いつの間にか女の前に小学生ぐらいの女の子が座っている。こうして女は話を聞き続けた。一人話し終える度にマニキュアは無くなり、次の人が話し始めるとまたマニキュアが小瓶を満たす。話の内容によって色は変わった。明るい話には明るい色、暗い話には暗い色。八本の指がカラフルに染まった時、彼女は大きなため息をついた。
「嗚呼、まったく……」
女は正面をじっと見つめている。あれ、なるべく顔は見ないんじゃなかったっけ、と不思議に俺は不思議に思った。今彼女の前に座っているのは高校生ぐらいの男の子だ。制服を着ている。そして彼は……泣いていた。
「あんた、どうしたの?」
(あれ……?)
これまでと違い女は男子高校生の顔をしっかりと覗き込み熱心に話を聞いている。だが……。
(男の子の声が聞こえない)
ポタリ、と小瓶に真っ赤な滴が垂れる。男の子が話し終え、九本目の指が深紅に染まったところで女は唐突にこちらを見た。俺は女に尋ねる。
「なぁ、さっきの子の声、俺には全く聞こえなかったけどあんたには聞こえていたのかい?」
「ああ、死者の声は私にしか聞こえないの」
「死者……。さっきの子はもう亡くなっているってことなのか」
「そうよ。そしてもう死んでしまっているから私の顔を見ても噂を広めることはできない。だからちゃんと目を見て話していたってわけ」
さっきの子は亡くなっていたのか。茫然とする俺に向かいそれにね、と女は続ける。
「泣きながら私の前に来るのは死者だけ。そしてその時私の爪は深紅に染まるの。血の赤に、ね」
不意に背筋がぞくりとした。女が軽く髪をかき上げてこちらを見る。長い黒髪がまるで生き物のように彼女の肢体に纏わり付いた。
「で、あんたはさっきから何で泣いてるんだい?」
(泣いている?)
俺はそっと頬に手を当てる。いつの間にか俺は……泣いていた。
「話してごらんなさいよ、大丈夫だから」
「大丈夫って何が」
女は俺を見つめニタリと嗤う。マニキュアの小瓶に深紅の滴がポタリと垂れた。
「あんたの声は私にしか聞こえない」
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