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1.噂
――ねえ、知ってる? あの噂。
「はぁ? 何の話だよ」
俺は電話の向こうから聞こえる理沙の声に少々うんざりしながらおざなりな返事をした。こいつはいつも実にくだらないことで電話をかけてくる。こっちは残業続きで早く寝たいんだ。だがそんなこと言おうものなら余計に話が長くなる。俺は仕方なく通話を続けた。
――マニュキュアを塗る女の話よ。
「聞いたことねぇな」
――寝る前に、何か強い想いを抱いているとその女は現れるらしいの。
「ふぅん。都市伝説ってやつ?」
――そうそう。でね、嫌な想いはスッキリ、楽しかった想いはいい思い出に変わるんですって!
「へぇ」
――ちょっと、浩平、聞いてる?
「ああ、悪い、明日も早いんだわ。最近体調悪くてさ。切っていいか」
理沙は不承不承電話を切った。俺はため息をついて眠りにつく。最近体調が悪いというのは本当だった。何だか妙に体がだるい。俺も来年三十歳だ。そろそろ体に気をつけた方がいいのかも、などとらしくもないことを考える。
「川口さん、顔色悪いですよ」
出社早々隣の席の三田村さんにそう言われた。
「ああ、ちょっと寝不足で」
実は俺の体調が悪いのは寝不足のせいでも理沙からの電話に苛々させられるせいでもない。今一番俺を悩ませているもの、それは……。
「おい、川口、ちょっと来い」
課長の田島。こいつのせいで俺は頭がおかしくなりそうだった。
「昨日言ったとこ、直ってないぞ。ここの数値は+300しろと言っただろ」
言ってない。絶対に言ってない。昨日その数値で提出した俺にここは+150で十分だ、何考えてるんだと怒鳴りつけたのはあんただろ。そう言い返して書類を机に叩きつける。……そんな想像をしながら俺はへこへこと頭を下げた。
「はい、申し訳ありません。すぐ修正します」
毎日この調子だ。何で目をつけられたのかはわからない。パワハラってのはそんなものなのかもしれない。このまま線路に飛び込んでしまおうか、駅のホームに立つ度そんな考えが頭を過るようになっていた。
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