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2.女
その日も課長のせいで遅くまで残業するはめになり慌てて駅へと向かう。ホームでぼうっとしていて危うく終電を逃すところだった。
(やれやれ。しかし今日はやけに電車空いてるな)
いつもは満員に近い終電が妙に空いていた。さっさと座席に座り目を瞑る。電車の振動が心地いい。いつの間にか俺は眠っていた。
(ん? 何だ、この臭い)
しばらくしてツン、と鼻をつくような臭いで目が覚める。どこかで嗅いだことがある臭い。
(ああ、これシンナー、か? 誰か油性ペンでも使っているのだろうか。電車で?)
ぼんやりとそんなことを考える。薄く目を開けると右隣の端っこの席に座る女の足元が目に入った。黒いハイヒール。夏場だというのにストッキングも黒い。徐々に視線を上げていくとその女が黒のワンピースを着ているのがわかった。全身黒ずくめというわけだ。葬式の帰りだろうか。そんなことを考えながらさらに視線を上げると彼女の手に小さな瓶が握られているのが見えた。あの形、あれは……。
(マニキュア?)
そう、隣の女がマニキュアを塗っていたのだ。俺が嗅いだのはマニキュアの臭い。女の持つマニキュアの小瓶は既に中が空になっている。黒ずくめの女が電車の中でマニキュアを塗る……何だかひどく現実離れした感じがした。
(ああ、そうか。この前理沙から変な噂を聞いたから……)
理沙が言っていた噂が脳裡に蘇る。
――マニュキュアを塗る女の話よ。寝る前に、何か強い想いを抱いているとその女は現れるらしいの。
ぼんやりと女の手元を見つめる。左手の小指の爪が黄色に塗られていた。女はその爪にふぅっと息をかけ出来栄えを眺めている。と、女が視線を上げ正面の席を見た。つられて俺も視線を上げる。するとそこには五十代ぐらいの中年男性が座っていた。
「で、なぁに?」
隣の女はマニキュアの小瓶を胸の辺りに持ち上げると唐突に正面の男に話かけた。
「俺は……」
男は驚いた様子もなく話始める。すると不思議なことが起きた。
(え?)
空だったはずのマニキュアの小瓶の中にポタリと何かが垂れたのだ。灰色の滴。小瓶の中が灰色のマニキュアで満たされていく。
(やっぱり夢なんだ。こんなこと有り得ない)
男の話は続く。彼はリストラされたのだと言う。家族に言えなくて毎日悩んでいるのだ、と。女は男の顔を見ようともせずせっせとマニキュアを塗った。時折、「へぇ」とか「そう」などと気のない返事をしながら。男は話終えると幾分スッキリした様子で席を立ちどこかへ行ってしまった。
(マニキュアを塗る女、か)
女は塗り終えた左手の薬指の爪を眺めながら唐突に、そうよと答える。驚いた俺は思わず女の顔を覗き込んだ。
「何だか少し噂になってしまっているみたいね。たまに覚えている人間がいるのよね。嫌になるわ。なるべく顔を見ないようにして聞いてやってるってのに」
女は腰ほどもある黒い長い髪を無造作に垂らしている。異常な程長い睫毛に大きな瞳、一度も陽に当たったことがないかのような真っ白な肌に真っ赤な唇。美しくはあるが同時になぜか恐ろしくもあった。
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