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from nowhere
高橋の囁いた言葉が、ギリギリと心臓を締め付けてくる。その意味を理解するのが、ひどく恐ろしかった。
1階にいる。
どこの?
高橋は俺と会って話をしたいと言っている、それに俺がそんなのできるわけないと返したことに対して、『1階にいる』と答えたのだ。
まさか、そんな馬鹿な。けど、それ以外に高橋のその言葉はあり得ない――来てるっていうのか、ここに? ここの1階から2階の水沢さんに電話して、それで俺との会話とかを聞いていた? どういうことだ、何のために、意味がわからなかった。
それを俺に告げてどうする気だ?
俺がそう聞いてどうにかすると思ってるのか? 俺に、何をさせようとしている? 汗が滲み出て止まらない。今は何もしていないというのに、さっきよりも、水沢さんを吊ったときよりも、息が切れている。どうしようもなく潰されてしまうようなプレッシャーが、手のひらに収まるほど小さな携帯から尽きることなく流れ込んでくる……!
『会って話そうって言っただけでそんなに緊張されるなんて……、芳野もしかして、私のあと誰とも付き合ってないの? 女の子と話したのも今日が久しぶりだったりしてね』
「冗談よせよ」
とても笑って話せるような気分ではない。なんでこいつがこんなに機嫌よさそうなのか、俺にはわからなかった。きっと何か狙いがあるに違いないが、その狙いがよくわからなかった。
それとも、この状況に本気で満足してるのか? 俺の生殺与奪を握っている――本気でそう思っている可能性だって、十二分にあった。
そんなやつの思い上がって伸びきった鼻っ柱を折れるなら折ってしまいたかったが、電話越しではなんとなくできそうになかった。
『どうしたの、怖いの?』
「――――、は?」
突然、鼻で笑うような声とともに高橋が尋ねてくる。俺を挑発しようとしているのはわかってる、だから何も答えないのが1番だ……わかってる、そんなのわかってる。
「さぁな、でもそんだけ俺に粘着してくるのは普通に気持ち悪いよ、やっぱ」
落ち着け……落ち着け……自分に言い聞かせながら、努めて平静な声で返す。ここで激昂してもたぶんそれは高橋が喜ぶだけだ――俺に対して影響を及ぼせると思わせてしまう。
俺は、こんなやつの前で動揺したりなんかしない。そうだよ、第一こいつが俺と水沢さんの現場を聞いていたとして、それならそこで助けに入らなかったことを咎められる……痛み分けになるに違いない。
それならこいつが通報なんてするとは思えない、だったらやっぱり、こいつには構わないでおくのが1番いいんだ、きっと。
お互いに黙ると、壁を叩きながら部屋のなかに入り込む雨の音がうるさかった。ここを隔離しようとするようなその音と、もう部屋のなかを見るのもやっとなくらいの宵闇。
黙っていることに耐えられなくなりそうなとき、先に口を開いたのは高橋だった。
『ふーん、来てくれないんだね、そっか……』
「普通ホテルの別部屋の客なんて見に行かねぇだろ、こういうとこだとそんなのただの覗きにしかならないし。なに、お前そういう趣味でもあったの?」
『ほんと、よく言えるよね』
「あ?」
『他人のセックスを覗く趣味があるのかなんてよくも、よりによって芳野がそんなこと言えるよねって言ったんだけど?』
その声には、思わず身震いしてしまうような棘が込められていた。寒さのせいだと言うにはあまりにも汗が伝い過ぎている背中を、暗闇が撫でているような気味悪さだった。
ここまで感情的な高橋の声を聞いたのは、初めてだったんじゃないだろうか。適度に低く聞き心地のいい声だという記憶ばかりあったが、それが今は暗闇全体に溶けているような暗く、影に満ちた声だ。
泣くこともせず、俺の下でその裸身をさらけ出しているときにもほとんど呼吸と変わらないような吐息しか漏らさず、笑うときもどこか落ち着いた――その遠さに胸を掻き毟られそうな笑みをこぼすばかりだった、記憶の中の高橋。
それが今、たとえ顔を見ていなくてもはっきり窺えるほどに感情を露にしたような声を出している……? あの、全部諦めたような寂しげな顔ばかりだった高橋に、そんな声を出させている? 俺が? そのことを思うと、その顔だけは見に降りてしまいたいとさえ思ってしまった。
『じゃあ、わかったよ』
「え?」
『芳野は怖くて私のとこに来られないんでしょ? それならそれでいいや、って』
「へぇ、そうかよ」
「話してる間に、もう部屋まで来られたからね」
ドアの向こうから声が聞こえて、慌ててそちらを振り向いたときには、もうドアノブは回りきっていた。
「…………、――――――ひっ!?」
あぁ、せめてこの部屋だけでも完全に闇に閉ざされてくれていたらよかったのに。
そこに立っていたのは、紛れもなく、亡霊だった。
「久しぶりだね、芳野。もう会えないと思ってた?」
亡霊が、笑う。
コツ、コツ、と音を立てながら近付いてくる足取りはあまりにも覚束ないのに。その手に握り締められた杖を蹴りさえすればすぐ無力に、無様に転ぶのだろうに。
俺は、何もできなかった。
コツ、コツ、コツ。
早くしないと、早く逃げないと。
コツ、コツ、コツ。
逃げられないのなら、せめて。
コツ、コツ、コツ。
駄目だ、もう遅過ぎる。
コツ。
鼻先数センチのところに、立っている。
あのときと同じシックな服、あのときと同じセミロングの黒髪、あのときと同じ香り、あのときと同じ含み笑い。
だからこそ余計に顔面のケロイドが、骨のように痩せ細った手が、血走った目が、時々痙攣する頬や瞼が、俺の足に絡み付いて離さない。
辛うじて笑みに見える形に顔を歪めてから、高橋は「元気そうだねぇ」と囁いてくる。そして。
「あの日のこと、なん……っにも覚えてないんだね、芳野。さすがに殺したくなる」
なんの躊躇いもなく、タメもなく、情緒もなく。
俺の脇腹に、小さなナイフを突き刺した。
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