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第2話 鎖されし教え
大きなスイングドアを開き酒場へと入ってくる、純白の修道服に身を包んだ女性。
服が張り詰める程に突き出した胸の上で揺れ弾む、純銀のテネディアの紋章に指を添え、女性は惚けた者達へ淑やかに一礼する。
「テネディアの託宣に従い、今日も皆さんの傷を癒しに来ました。未熟な身ではありますが、本日も――」
「俺らの女神がやってきたぞおおおぉぉっっ!!」
『うおおおおっっ!!!』
傭兵たちが歓喜の雄叫びを上げる。
女性は「はんっ」と小さく叫び、しかし楽しそうに両耳を塞いで笑う。
そんな騒音さえ気にならないほど、少年もまた「女神」に見惚れていた。
「今日こそ俺が一番乗りだッ!」
「あっテメー、ずりィぞ! 抜け駆けすんな!」
「テレリアちゃ~ん、今日俺大型の群れを仕留めてきたんだよォ。傷がウズくんだ、最初に治療してくれよォ」
「わっとと――大丈夫ですよっ! 皆さんちゃんと治療してあげますから、いつもみたいに並んでくださいっ!」
酒で脂ぎった男達が、肉体を見せびらかすようにして次々にとっておいた生傷を、テレリアと呼ばれた女性にさらす。
テレリアはその男臭さにも嫌な顔一つせず、静かな笑顔で傷を治療し始めた。
「はい、終わりましたよ」
「ありがとな、テレリア。教会の他の治癒術師共と違って無料でやってくれるからありがてぇよ」
「あっ……ふふ、ありがとうございます」
「オイ! テメ何テレリアの頭撫でてんだコラッ!」
「俺のテレリアに手ェ出すなッ!」
「ホラ皆さん、こんなところでケガしちゃ明日に差し支えますよ。次の方どうぞー! 足首ですね。はい、じゃあ失礼します」
「あー、痛みが消えてく……いつも通りいい具合だぜ、テレリア」
「あっ……ふふ、ありがとうございます、ジェウェンさん」
「後は……息子まで慰めてくれりゃいうことは無いんだが?」
「ひゃんっ! ちょ、ちょっともぅっ。手元が狂っちゃいますから」
『おいこ゛ら゛ぁ゛!!?』
「テメェ何テレリアちゃんの乳揉んでんだよ――離せって!!」
「とか言いながらもう片方揉もうとしてんだろ! させねーぞテメー!」
「しかし、お前は一回も嫌がる素振りを見せねーよなテレリアぁ……実は続けて欲しいんじゃねーのか? いい加減こんなムサい連中の相手ばかりしてねーで俺のとこに来いよ。死ぬほど可愛がってやるぜ?」
「ですから手ぇ……もうっ。ダメですよ。他の所にも、私のことを必要としてくれる方々はたくさんいらっしゃるんですから」
「っはー、見ろよあの尻も。後ろから見てるだけでもうタマんねぇよ」
「娼婦ですっつった方が納得できるよなァ!」
「抱きてぇー」
下卑た男たちの欲望に塗れながら、それでも手を払いのけることなく治療を施していくテレリア。
そんな光景に反吐が出そうな顔をしながら、しかし少年はただ目を逸らし、そばに置かれた掃除道具で床を片付けることしかできなかった。
だから少年は、
「ファナさん!」
「っっっ!!!??!??!」
気が付くと自分の眼前に屈んでいたテレリアを見て、ひっくり返らんばかりに驚いたのだ。
「これ、ファナさんがいつも食べてるお食事ですよね。どうして今日はこんなにメチャクチャに?」
「あっ……あぅ、あの、」
「それに、お掃除もずっと片手で……あら」
自分の胸元に視線を落とすテレリアに、ファナと呼ばれた少年は己が信仰の証を無くした状態だと気付き、思わず両手で胸を隠すように後ずさる。
手に持っていた紋章の破片が、テレリアの前に散乱した。
「………………」
「………………」
――ほんの一瞬の無言。
しかしファナにとっては、唯一余人に負けないテレリアとの共通点だと自負していた信仰を証明できない、地獄の時間だった。
信仰を失った自分に、テレリアは価値を見出してくれない。
紋章を守れなかった自分を、テネディアは見止めて下さらない。
「ファナさん」
信仰。
テネディア教。
それはファナにとって、世界で唯一の他者との「つながり」――――
「大丈夫ですよ。ファナさん」
「――――え?」
ファナが話しかけられていることを自覚したのは、その地獄が全身くまなく行き渡った時だった。
テレリアが、肉と油と酒と汚れに塗れた床に躊躇いなく掌を当てる。
ファナの真っ黒な瞳に照り返される真っ白な光はやがて柔らかな粒子となり、紋章の破片を寄り集め――――再び一つの紋章へと再構築する。
「――――――――、」
「あら……少し、破片が足りませんでしたね。探してみましょうか。この辺りで壊れたなら――」
「いい!……です」
「え?」
膝を着き、純白の服を汚してまで床で紋章の破片を探そうとするテレリアを、ファナが止める。
その手にはテレリアが修復し、所々が小さく欠けていることで――――世界でたった一つのデザインになったテネディアの紋章。
「これで、いいです」
「あ……でも、破片が集まればちゃんとした、」
「いいんです。……ありがとうございます。ありがとう」
紋章を握り締め、感極まった声で俯く少年に、少女は優しく笑いかける。
「困ったことがあったら、何でも相談してくださいね、ファナさん。テネディアはいつもあなたを見ていますから」
「――――はい。はい」
「おいおいズルいじゃねぇかテレリアよォ」
「ひゃぅんっ?」
「!?」
戸惑いの声にファナが顔を上げる。
見ると屈んだテレリアの横に同じく座り、無遠慮に尻を揉みしだいているらしい傭兵の姿。
「あの……倒れちゃいますからっ」
「なぁ、さっきみてーに順番でいいからさぁ、ブチ込ませてくれよぉ。そんな臭せーガキ相手にするよりよっぽど気持ちよくしてやっからよぉ」
「あ、それだけは出来ないんです。ごめんなさいカニスさん」
「おいクソ野郎!」「離せその汚ねー手を!!」「酔っぱらってんぞそいつ!」
「頼むよォ~!!!」
「あ、あぁっ……ちょっと。だめですよ手ぇ動かしちゃっ……他のことなら何でもしますから」
「へぇぇぇ~え? それはヒック……本番以外だったらヤッてもいいってことなのかぁ~!?」
「え? あっ、あのちょっと……」
目の前で屈むテレリアが、股を押さえながら後ろを振り向こうとする。
普段より度が過ぎた事態を察知したファナは、テレリアの肩に顔を寄せ舌を出す外道を睨み付け、飛び掛かろうと足に――――
「我が妻に触れるな。屑共」
――――込めようとした力は、行き場をなくして消え失せた。
空気が一瞬で張り詰める。
一瞬前まで欲望を剥き出しにしていた傭兵たちが揃ってテレリアから視線を外し、彼らに明確な敵意と清らかな魔波を向ける相手を見る。
酒場の入り口に立つのは、金色に縁取られた白百合色の鎧の上に、水縹色の外套を羽織った長身の騎士の姿。
外套は、その瞳と同じく碧色に輝くテネディアを象った留め具によって留められ、揺れる金砂の長髪がその威光をより一層引き立て、御姿をより神々しいものに仕立て上げる。
エクター。
テネディア教教会騎士団、副団長を務める男。
「あなた!」
『あ――!!?』
傭兵たちが揃って目を丸くする。
ファナに背を向け、テレリアは夫のそばへと駆け――酒場の中へと向き直った。
「ご報告が遅れましたが……そうなんです。私、この度教会騎士団副団長のエクター様と、結婚することが決まったんです。皆さん、祝福してくれますか?」
眉と目の間で切り揃えられた黒髪を揺らし、にこやかに笑って言うテレリア。あまりに場の空気を読まない朗らかさに、その場の全員が怪訝な顔をする。
「ま、式は無事私達が最終攻略戦から帰ってこれたら、の話ですけどね。ふふ」
「! 私達――」
ファナのつぶやきは誰にも聞こえない。
「……テレリア。いいから下がっていろ」
「あ、はい。お勤めご苦労様です、あなた。でも何故ここに?」
「君を探していたんだが……まさか君、あんな性犯罪をこれまでずっと黙認してきたのか?」
「あー……はい。そういうことに……なります?」
「……まあいい。責められるべきは君じゃない」
エクターの眼光が、額で二つに分けられた長い前髪の向こうから傭兵たちを射抜く。
ファナの時とは打って変わって、傭兵たちは一人残らず身構えた。
「汚らしい豚共め。貴様等、よく恥ずかしげも無く公衆の面前で劣情をさらせたものだな。誇りは無いのか、人間として!」
「その女は黙認してたワケじゃねーぜ、聖騎士サマよぉ。テレリアは俺らにどんなに嬲られても、自ら望んで毎日ここへやってくるんだ」
「嬲ッ――」
「そういうこったよ。この女はテメーが思ってるような聖女じゃねえ。とんでもねえ好き者かもしれんぜ……!」
「ちがうっ!」
――その声に、一番驚いたのはファナ自身だった。
多くの視線が一斉に少年を捉える。
尻込みしそうになったファナだったが、目の前にいる憧れの騎士に背を押され、お腹に力を込めて叫ぶ。
「彼女は拒否していた。嘘をついてるのはそいつらだ、エクターさん!」
「クソガキ、てめ――」
「どこまでも下衆な連中め……もう勘弁なら――」
「テレリアは見つかったんだな、エクター」
『!!?』
エクターに次ぎ、酒場へと入ってくる人物。
その壮年の人物は場の空気こそ変えはしなかったが――――傭兵たちは今度こそ、驚愕に一歩ずつ後ずさった。
「き……騎士団長ヒディルまで……!?」
「ええ……テレリアを頼みます、ヒディル様。私は」
「『私は』? どうするつもりなんだ」
「………………」
「どうもまだ血の気が多いなお前は……すまなかった、傭兵諸君。我々は治癒術師テレリアを探していただけなんだ。楽しい所を邪魔して済まなかった、失礼するよ」
「行くぞテレリア。あの様子じゃもう仕事も済んだんだろう」
「はいっ。それじゃあ皆さん、またそのうちに!」
「――て。テレリアっ」
「はい?」
エクターに肩を抱かれたまま去ろうとしていたテレリアがファナに振り返る。
同時にエクター、ヒディルからも目線を向けられ、ファナは縮こまるようにして口を開いた。
「あ、あの……テレリアも、行くんですか。最終攻略戦に」
「――はい。今回やっと、前線の野戦治療院に配属されることになって! 一緒に頑張りましょうね、傭兵の皆さんも!…………あれ」
テレリアの言葉に、応える傭兵は誰一人いない。
皆、ただありったけの敵意でエクターを、ヒディルを見つめるだけだ。
ヒディルが傭兵たちに向き直った。
「確かに、市井には君達傭兵を騎士団の下請けのように見ている声もある。騎士団が狩り漏らしたおこぼれに預かるだけのハイエナのような集団だとね。だがそれは違うと、私はハッキリ思う。君達はこのベステアに必要不可欠な存在だ。実際に今回の最終攻略戦――人間と魔族の総力を結集した戦いも、圧倒的多数の君達傭兵が協力する気になってくれなければ、実現しなかったろう」
傭兵たち一人一人の顔を記憶に刻み付けるように見渡しながら、ヒディルは続ける。
「魔物と魔族の巣窟であるギアガロク巨大連山が、我が国ベステアを囲うように地底より突き出で、我々ベステアに住まう人間達を脅かし始めてはや百数十年。人的にも物的にも限られた資源の中、ベステアの民は始祖神テネディアの下団結し、魔なる者達に抗い続け――とうとう今、魔なる者達の駆逐に成功しようとしている。総力を結集した魔の者達に対するには、我ら人間も一致団結してことに臨まなければならない。我々は、成果を競うことも互いにけん制し合うことも望まない。ただ力を合わせたいと願うだけだ」
ヒディルはそこで言葉を切り――傭兵達へ向けて一礼する。
「よろしく頼む。明日は肩を並べ、ベステアの為に力を尽くそう」
エクターとテレリアを連れ、ヒディルは酒場を出ていった。
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