22人が本棚に入れています
本棚に追加
ひと夏の恋
「ありがとうございましたー」
お客さんが帰ったタイミングを見計らって、僕は防犯カメラに映らないように注意しながら、大きな欠伸を零した。
高校二年生の夏休み、目的も無くだらだらと過ごしていた僕に「アルバイトでもしなさいよ!」って背中を押したのは母だった。ここのコンビニの店長とは、僕が小さい頃からの知り合いのおじさんなので「社会勉強だな!」って面接も無しに僕を夏休み限定で雇ってくれた。
「……暇」
思わず言葉が漏れる。午後二時の店内は空いている。きっと、外が暑いからお客さんたちも家の中から出ないんだ。だから、こんなに暇な時間が続くのに違いない。
僕はちらりとお弁当が並ぶコーナーを見つめる。売れなければ、あと数時間で廃棄されてしまう、可哀そうなお弁当。もったいないよなぁ、一個くらい持って帰ったら駄目かなぁ、なんて考えが浮かぶ。食品を大切にしなければならない社会の仕組みが必要だって授業で習ったばかりだ。
授業と言えば……夏休みが終われば、母は僕を塾に入れるって言っていたっけ。受験なんてまだまだ先なのに、ああ……面倒くさいなぁ。思わずため息が出たその時、お客さんが入店する際に流れる、軽快なリズムの音楽が店内に響き渡った。
「いらっしゃいませー」
そのお客さんは僕のことを一瞬ちらっと見てから、奥のドリンク売り場のコーナーに向かった。そして、レモン味の炭酸のペットボトルを取り出して手に持つ。それから、おにぎりのコーナーに向かってエビマヨとサバのおにぎりを手に取った。そして、レジに向かって歩いてくる。僕は背筋を正して一礼した。
「お預かりします」
「それから、煙草。ほら、一番端の赤い箱のやつ」
お客さんはレジの奥を指差してそう言った。僕は振り向いて確認する。確かに、一番端に赤い箱が並んでいた。煙草を販売するのは初めてだ。僕はちょっとどきどきしながら、その箱を取ってバーコードを通した。それから、おにぎりと炭酸もピッピと会計していく。
「九百三円です」
「ん」
お客さんは千円札を出さずに、小銭で会計を済ませた。袋は要らないってポケットからエコバックを取り出して、お客さんは買ったものを無造作にその中に放り込んでいった。
「高校生?」
急に話し掛けられたものだから、僕の心臓が跳ねた。僕は「はい」と答えながら、お客さんを観察する。この暑いのにスーツ姿で、硬そうな茶色い靴。髪は染めていなくて、さらさらしている。近くの会社に勤めている人だろうか。背が高くて、正直、モテそうだと思った。
「夏休みなのに偉いね」
「いえ……母に社会勉強しろって言われて」
「へぇ。どう、調子は」
「まぁまぁです」
僕の言葉を聞いて、お客さんはくすくすと笑った。
「ま、夏休みもまだまだ続くし、頑張って」
「ありがとうございます」
お客さんは、右手を軽く上げて店内から出て行った。僕は、彼のことを考える。
ぴしっとしてた人だけど、煙草、吸うんだな……ちょっとギャップがある。別に、煙草を吸う人がだらしないとかそういうんじゃなくって、こう……あの人のイメージに合わないっていうか、そういう問題で。
社会人だから、付き合いで吸うこともあるのかもしれない。
僕は、小銭を僕に渡した時の彼の長い指を思い出していた。あの指に、一本の煙草を挟んで、くちびるの隙間から煙を吐き出す……格好良いなって思った。そういう姿が似合う大人になりたいな。何年先になるか分からないけど……。
ぼんやりと頭の中が彼のことで支配されていたその時、別のお客さんが店内に入って来た。僕は慌てて意識を切り替えて、大きな声で「いらっしゃいませー」と笑顔を作った。
***
「煙草もお願い」
次の日、そのまた次の日も、彼はコンビニに現れた。そして、炭酸とおにぎりと煙草を買って、僕と少しだけ話をして帰っていく。すっかり常連さんだ。僕は、少しだけ彼に対して心が開けてきた。ので、僕と彼以外誰も居ない店内でこっそり愚痴を言ったり、時には彼の愚痴を聞いたりしている。
今日も店内には二人っきり。
僕は、煙草のバーコードを通しながら彼に言った。
「煙草、吸われるんですね」
「ん? だから買ってるんだけど」
「いえ……お客さん、煙草のにおいが全然しないから……」
「ああ、消臭スプレー振ってるから。そうしないと、職場がうるさいから」
「そうですか。けど、一日に一箱は多いのではないですか? もうちょっと減らさないと」
僕の言葉に彼は笑う。
「そんなこと言うと、売り上げが減るよ」
「僕は別に困らないので」
「良いね。君、面白いな」
禁煙考えるよ、と言い残して、彼はいつものように店を後にした。残された僕は、並ぶ煙草の箱をぼんやりと眺めた。赤いシンプルなパッケージ。この中には、大人の味が入っている。僕も成人したら吸おうかな、なんて、彼の心配をしたばかりなのにそんなことを考えてしまう。いつの間にか、僕は彼のことが気になって仕方が無くなってしまっていた。
これは恋なのだろうか。それとも、憧れ?
分からない……。
今はただ、もっと彼のことを知りたいという強い願望が、宇宙の渦みたいに僕の心を支配していた。
***
こうしている間に、最後のシフトの日になった。今日、彼は現れなかった。残念だ……最後に、もっと話したかったのに。恋と自覚したその時には、もう何も掴めない。
僕は制服から私服に着替えて、店長に頭を下げる。
「勉強させていただき、ありがとうございました」
「なぁに! いつでも雇ってやるから安心しな! でもその前に受験だな! お前の母ちゃんに会ったけど、塾に入れるんだって張り切ってたぞ? まずは、学業に専念だな!」
「……はい」
店を出て、帰り道をのんびりと歩く。
コンビニから数メートル先に、母が僕を入れようとしている塾が建っている。この辺じゃ有名な進学塾だ。こんなところに入れられたら、毎日勉強の山で地獄を見るだろう。僕は偵察のつもりで、その塾に向かって歩き出した。
塾の駐輪場には自転車がびっしりと止まっていて、こんなに生徒が居るのかと驚いた。秋からここに僕も加わるのかと思うと胃が痛くなる。よし、何も見なかったことにして帰ろう。そう思って振り向いた瞬間、僕の目にあり得ない人物が飛び込んで来た。
「あ……お客さん」
そこに立っていたのは、いつもの、炭酸とおにぎりと煙草を買う、すらりとした眩しい彼で……。
驚いて何も言えない僕の腕を掴み、彼は「静かに」と囁いて塾の裏手へと回った。
「驚いた。こんなところで会うなんて」
彼の首からは社員証がぶら下がっていた。もしかして、もしかすると――。
「塾の、先生だったんですか?」
「そう。ここで働いてる」
ええっ! と叫びそうになるのを僕は必死で堪えた。彼はくすくすと笑いながら言う。
「今日は夏休み最後の日だろう? だから、会わない方が良いって思ってコンビニに行かなかった」
「え? どうしてですか?」
「だって、君、俺のこと好きじゃん」
さらりとそんなことを言われて、僕は「な……」と言葉を詰まらせた。彼は続ける。
「会うたびに可愛くなっていくから焦ったよ。まったく……恋は人間を変えるって言うけどさ」
「な、待って下さい! そんな、好きとか別に……」
「気にはなっていだだろう?」
「まぁ、それは認めますけど」
僕は小さな声で言う。彼は満足そうに微笑んだ。
「俺も君のこと気になってたけど、立場上、高校生とは付き合えないから諦めようって思ってたのに、こうやって運命的な再開を果たしたわけだ」
「運命……」
「そ、運命。ね、連絡先交換しようよ。君のこと、もっと知りたい」
「……それよりも先に、相談したいことがありまして」
「ん?」
僕はここの塾に入れられそうになっていることを彼に話した。すると、彼は「なんてことだ!」と空を仰ぐ。
「良いかい? ここは個別指導塾なんだ」
「え? そうなんですか?」
「生徒二人に講師が一人。けど、中には例外がある」
にやりと彼は笑う。
「特に勉強が苦手な子は、一対一で授業を行うことが可能なんだ。つまりは……俺が君を独占できる」
「な……」
「ああ、神様に感謝だね。こんな出会いは二度と無いな……俺は授業ではスパルタだけど、嫌いにはならないでね?」
そう言って彼は、僕との距離を詰めてきた。思わず一歩下がる僕に、彼は不満そうな表情をした。
「何ですか?」
「キスだよ」
「は、き、キス!?」
「したい」
「だ、駄目です! そういうのは、ちゃんと付き合ってから三か月くらい経ってからで……」
「隙あり!」
「っ!」
僕のファーストキスはいとも簡単に奪われた。その味は……苦い。この味って……!
「っ、煙草、禁煙するって言ってたのに……!」
「ああ、ごめんごめん。今日吸ったのが最後だから、本当だよ?」
彼はスーツのポケットから煙草の箱を取り出して、くしゃっと潰して近くのゴミ箱に放り投げた。そして、僕を抱き寄せて囁く。
「次のキスの味は、きっと甘いよ」
「……っ!」
「勉強頑張ろうね」
「は、はい……」
こうして、ひと夏の思い出で消えてしまう予定だった僕の恋は、これから先も続いていくことになった。
これからは、二人だけの内緒の恋が始まる。
蝉の鳴き声が遠くに聞こえる中、僕たちは恋の運命というやつに浸るように、身体を寄せ合い抱きしめ合っていたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!