MAJESTY

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 サーシャはまだ知らなかった。村に“子捨て”の風習があったことを。  ある日、まだ幼いサーシャは両親から王都へ旅行に行こうと誘われた。サーシャは飛んで喜んだ。彼女の生まれた村は非常に貧しく、旅行なんて贅沢は生まれて初めてだったからだ。  ある朝彼女は村を出発した。ボロ着だが目一杯のおしゃれをし、ドロドロになった愛するぬいぐるみを抱きしめて、鼻歌を歌いながら王都へ旅立った。  原っぱをしばらく歩くと大きな山が見えてきた。今日は天気が好くなく、山頂は陰鬱な雲の天井に飲み込まれていた。  両親は、あの山を超えた先に王都があるとサーシャに説明した。その顔は空と同じく暗い。 「せっかくの旅行なのにどうしてそんな暗い顔をしてるの?」  幼いサーシャの声にはまだ毒がない。尋ねられた両親はただ黙々と、まるで死者の行進のようにサーシャの手をとって歩き続けた。  サーシャは疑問だった。両親の荷物の少なさが。一度日帰りで近くの湖を見物にいったことがあったが、その時と変わらない準備の薄さだった。 何も話さない両親が不気味で、胸躍るはずの王都旅行の雲行きがだんだんと怪しくなっていった。  山に入った。  湿度が高く空気は重い。樹木のトンネルの中はまだ昼前なのに日没を思わせる暗さだった。死んだような静寂の中に響くのは三つの足音のみ。サーシャはおもわず立ち止まって両親の手を引いた。 「パパ、ママ、私怖い」  不安げに彼女が言うと、さっきまで暗い顔だった両親の表情が幾分か和らいでいるように見えた。光りに近づくというか、重荷を下ろす瞬間が近づいているというか、そんな顔だった。 「サーシャ、心配はいらない。この山を越えれば王都だ」  サーシャと同じようなボロ着姿の父が嬉しそうな表情で彼女の頭を撫でた。しかしサーシャは気づいていた。父の目が笑っていなかったことを。無論、サーシャの年頃ではまだ作り笑いという言葉を知ることはない。漠然とした違和感としてサーシャを不安がらせた。  それから一時間ほど歩けば、木々の間に間に時折見える遠景が小さく霞んでいき、二時間ほど歩いた頃には、辺りが霧に閉ざされ始めた。気温は下がり、ボロ着のサーシャは寒さのあまり腕を抱えてブルブルと身震いを始めた。  その時父が、急に背後を振り返りながら大きな声を上げ始めた。 「魔族だ! 魔族の連中が来たぞ!」  父と母はサーシャの手を引き、全速力で山道を駆け上り始めた。サーシャは「魔族」と聞いて怯えた。  サーシャの村にはこんな言い伝えがあった。数年に一度、村に魔族がやってきて村人を拐って食べてしまう。  そんな話を、サーシャは夜な夜な聞かされ続けて育ってきた。魔族は敵。魔族は恐ろしい人喰いの悪魔である。  だからサーシャは、父の口にした魔族という言葉に戦慄が走った。怖々振り返ると、そこには深い霧が作った白い壁が見えるばかり。その壁から突然魔物の手が伸びてきて、自分に襲いかかってくるんじゃないか。そんなことを考えながら、サーシャは死に物狂いで走った。 「あなた! あそこに洞穴があるわ」  母が叫ぶと、父は、 「よし、あそこなら大丈夫だ。せめてサーシャだけでも助けられる」  と言ってサーシャを草むらの影にポカリと空いていた小さな洞穴に押し込めた。両親は涙を流しながらむしった草や拾った小枝でサーシャを懸命に隠す。魔族に見つかって喰われないようにするためだろうか。 「サーシャ、よく聞きなさい。パパたちが戻ってくるまでは絶対にここから出てはいけない。わかったね」  サーシャは首を激しく振って拒絶した。 「嫌だっ」  叫びながら穴から出ようとする。しかし両親はそれを許さなかった。大粒の涙を流しながら、 「頼む、言うことを聞いてくれ。お前が魔族に喰われるところなんて見せないでくれ」  魔族に喰われるという言葉にサーシャは凍りついた。だからそれ以上、両親に抵抗できなくなった。サーシャはパチリと開いた大きな目からボロボロと涙を流し始める。  彼女は、予感していた。パパ達はもう戻ってこない。もう二度と会えなくなる。悲しかった。しかし、その悲しさを上回る恐怖に全身を縛られた彼女は、大人しく、黙って、穴ぐらのなかで両親の足音が遠ざかっていくのを聞き届けるしかできなかった。  しばらくして、雨が降り始めた。両親が作ってくれた草と小枝のバリケードのお陰で風雨を凌ぐことはできた。土の穴は意外に暖かく、凍え死ぬ心配もなかった。  だが雨は続き、陽が沈んでも止むことはなかった。聴こえてくるのは雨粒のシャワーが樹木の枝葉を叩く音だけ。サーシャは暗黒の洞穴の中で縮こまりながら、叶うかどうかもわからぬ願いにすがり付いていた。  パパとママの声が聞きたい。  パパとママの顔が見たい。  またパパとママと一緒にご飯が食べたい。  そう祈りながら、枯れても枯れても尚も涙を流し続けた。  気が付くと、小鳥のさえずりが聞こえてきた。バリケードの隙間から光りが漏れていて、穴の中には数本の美しい光の線が引かれていた。朝だ。  サーシャはあのあと眠りに落ちたのだが、小鳥のハミングに目を覚ました。目と鼻の周りは涙と鼻水が乾いてカリカリになっていた。  線となって穴へ落ちてくる陽光は気持ちよさそうで、すぐにでも窮屈な穴ぐらを飛び出したかったが、昨夜の父の口走った魔族という言葉が呪いとなってサーシャの体は竦んだままだ。  それから彼女は、両親と交わした約束通り穴の中を二日間動かなかった。座る姿勢が長く続いたせいでお尻がズキズキ痛む。それでも彼女は一切の飲食を取れないまま穴のなかで過ごした。  そして、三日目の朝。衰弱しきった彼女は誰かの足音に目を覚ました。一瞬、両親が迎えに来てくれたのかと期待しかけたが、その音は明らかに聴き慣れた両親のものではなかった。草と土を踏みしめる音はやけに重く、カチャカチャと金属が擦れる音が混ざっている。どこか尖った印象のある音だ。しかも三、四人ほどの団体のようでもあった。  サーシャの脳裏を“魔族”の言葉がよぎる。足音達は迷うことなくこちらに向かって来ていた。彼女は息を殺し、体を硬直させ、目を開けていられなくなった。  次の瞬間、ガサッ、という勢いのある音とともに閉じた瞼の裏がパッと明るくなった。近づいてきた何者かが草木のバリケードを引っ剥がしたのだ。サーシャは懸命に死んだふりをした。 「動きませんね」  男の低い声がした。サーシャは相手に悟られぬように紙切れ一枚ほど薄く目を開けた。眩しい背景に四つの人の形をした大きな影がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。まだ幼いサーシャは、その影を見て巨人と見紛った。 「確かめろ」  中性的な男性の声が聞こえると、命を受けた一際大きな男が、ガシャリ、と金属の音を立てながらサーシャに手を伸ばした。男はサーシャの脈を取った。息をこらえることは出来ても、鼓動までは止めることはできない。サーシャは死んだふりを見抜かれると一瞬で悟って背中が凍っていくのを感じた。 「今日は良き日ですね」  サーシャが生きていることを確認した男が、中性的な声の男に嬉しそうに報告した。 「回収せよ。ただし手荒にするなよ」  サーシャは、彼らのことを魔族と思い込んでいた。取って喰われることを予感した。煮られるのか、焼かれるのか、皮を剥ぎ取られるのか、そんなことを想像すると彼女の生存本能が地獄の業火のごとく迸った。死んだように動かなかったサーシャが突然抵抗を始めた。断末魔に似た大きな声に驚いた小鳥たちが、枝葉を揺らしながら一斉に飛び立つ。 「大人しくしなさい」  男がふたりがかりで小さな子供を押さえつけるが、サーシャはそれでも暴れ倒した。 「マジェスティ、縛ってもよろしいでしょうか」  彼女を押さえつける男の一人が中性的な声の男に慌ただしく尋ねる。 「だめだ」  彼はそう答えて、腰を下げ暴れるサーシャの顔を覗き込んだ。微笑んでいる。 「君、よく聞きたまえ」  サーシャは敵意をむき出した目で彼を睨んだ。  魔族は人をとって喰う化物。地獄を想起させる酷い人相をしているに違いない。サーシャはそう思いながら彼の顔を凝視した。だが、その中性的な声の彼は、意外にも澄んだ顔の美青年だった。絹糸のような金色の髪が肩まで伸びていて、ブルーサファイアの目はナイフで切れ目を入れたように細い。血色と艶のいい唇が白い肌に栄えていた。別にメイクをしているわけでもないのに化粧広告のポスターに出てきそうな美しい顔立ちだった。声と同じで顔も中性的。 「決して君をとって喰おうとしているわけではない。君を保護したいのだよ」  その柔らかい声は魔法のようにサーシャの警戒心を氷解させた。春に触れて溶ける雪のように。  サーシャは四人の男たちに連れられて山を降りた。彼女は静かだった。四人の鎧を来た男たちが優しく丁重に扱ってくれたから、サーシャはすっかり彼らを信用しきっていた。  下山の道中、 「マジェスティ、あそこをご覧ください」  一人の男が茂みを指差す。丈の長い草の隙間に、サーシャが隠れていたのと同じぐらいの洞穴が見えた。 「調べてくれたまえ」  マジェスティと呼ばれた若き金髪の青年がフムと頷いて指示した。命を受けた男はガチャガチャと鎧の音を立てながら草をより分け、穴の中を確認した。彼は黙ってこちらに振り向き、沈んだ顔で首を横に振った。それを見た男たち全員が同じように顔を曇らせた。 「この骸。いかがいたしましょう」  問われた青年が穴へ歩み寄って中を覗き込む。すると、サーシャと同じぐらいの小さな男の子が息をせずに横たわっていた。手足は小鹿のように痛々しく痩せ細っていた。 「このまま野ざらしにして野獣の餌にするのは不憫だ。せめて弔ってやろう」  青年がそう言って男の子を肩に担ぎ上げた。そばの男が慌てて言う。 「マジェスティ、私がお持ちします」 「いや、いいんだ。命の重さを体に叩き込んでおきたい」  夏場の打ち水のような爽やかさを纏いながら青年は先頭を切って下山を再開させた。  サーシャは青年の後ろ姿を眺めた。背中に大きく剣を担いでいて立派な外套を着ている。肩に担がれる男の子は砂を詰めた麻袋のように力なく地面に向かってだらりと垂れ下がっていた。幼いサーシャにも彼が生きていないことがはっきりとわかった。彼女の唇は僅かに震えていた。  山を降りた一向は麓で馬車に乗り、一刻ほど走ったのち、栄えた街に入った。出迎えたのは、入ってすぐの広場にある噴水と笑顔の街人たちだ。彼ら彼女らは、手網を持つ青年をみるや一様に、 「おかえりなさい、マジェスティ」  と声を揃えて会釈した。彼も、 「ただいま」  と丁寧に返した。華やかな街の音、陽を受けて虹色に光る噴水のミスト。その場に存在する何もかもが心地よい。  その馬車は、大きな宿舎のような施設に入った。山沿いに建てられた一棟の立派なレンガ造りの建造物は三階建て。玄関に馬の嘶きが響くと、青年の帰りを待ちわびていた子供たちが一斉に迎えに出てきた。馬上から降りたばかりの青年に少年少女がきゃあきゃあ言いながら愛くるしく飛びついた。  ここは孤児の保養所。そしてここで暮らすのは身寄りはないが将来のある子供たち。  所長を務める修道院服姿の年配女性が子供達に次いで出てきた。 「お帰りなさいませ、マジェスティ」  彼女は深くお辞儀をした。 「ただいまルミアさん。今日は二人です。その内一人を弔ってやりたい」 「かしこまりました」   修道院服のルミアが馬車の荷台に回ると、ちょうど降りたばかりの三人の鎧の男とサーシャと鉢合わせた。ルミアは不安顔のサーシャに優しく微笑みかける。 「初めまして。私はルミアよ。あなたのお名前は?」  サーシャは口ごもりながら名乗った。 「サーシャちゃんね、今日からよろしく」 
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