1章-3 初めての…

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 コンコンコン! 「北山様、緑川様、ご無事でいらっしゃいますか?東郷の部下の成宮貴良(なりみやきら)と言います。開けていただけませんか?」  ノックの音に乃亜はハッとして、ドアを振り向く。 「私はΩです。大丈夫です」  ドアの向こうに居る人の声に、ホッとしてドアを少しだけ開けた。  その名前は知っていた。  東郷にはαの切れ者秘書が常に付いている。  その秘書程ではないが、時々見掛ける冷たい氷のような美しさを湛えた美人。中性的な容貌の男?女?名前を聞いても、顔を見ても性別はわからないのだが、あの線の細さはαではないと思っていた。  が、東郷の側近にΩが居たとは驚く。  見覚えのあるその人は、心配そうに中を覗く。  初めて見掛けた時とは違う、優しそうな眼差し。  乃亜の勘が『この人は大丈夫』と察知する。  貴良は、スッと部屋の中へ滑り込むように入ると、床に転がり荒い呼吸を繰り返している蒼に近づく。 「抑制剤は飲ませましたか?」  乃亜に聞きながら、蒼を担ぎ上げる。その身のこなしで、男だとわかる。  寝室に運び、ベッドに降ろすと、横にする前にタキシードを脱がせ、慣れた手つきでカマーバンドとサスペンダーを外し、蒼の体を横にした。 「緑川様、ヒートは初めてですか?」  貴良はいそいそと荷物の中を漁りながら、乃亜に聞く。 「今まで性別不明って言われていて、全然そんな兆候もなく…」 「今日の、学校での様子は?」  「何もない」と乃亜が首を横に振ると、貴良は「あぁ…」と天井を仰いだ。  アルミ製のペンケースのようなものを出してくる。  ドアの開く音がして、走ってきたのか肩で息をする東郷の姿が部屋に入ってくる。  乃亜はとっさに蒼の姿を背中に隠した。  発情したΩが出すフェロモンはαを欲情させる。そのフェロモンに抗って理性を保っていられるαなんていない。  だからΩが襲われる事件はなくならないし、αはΩを誘惑してくる淫売だと言って(さげす)むのだ。  発情中のΩにとって、近付くことに同意も好意もないαなんて、恐怖以外の何ものでもない。  貴良が表情一つ変えずに、アルミケースの中から自己注射器型の抑制剤を出し、袋を破いた。  注射器に入っているのは、即効性のある強力な抑制剤だ。緊急時以外で使われることはほぼない。  蒼にはエレベーターの中で錠剤を飲ませた。でも、初めてヒートを迎えた蒼にそれを使うの?と、乃亜は(おび)えた目で貴良と東郷を見る。  東郷は、テールコートを脱いでソファに投げつけ、貴良の手から奪い取るように注射器を受け取ると、ウイングカラーシャツの袖をまくるのも面倒とばかりに、そのまま白い袖の上から自分の上腕目がけて刺した。 ――α用抑制剤?!  大きく深呼吸をして針を抜くと、貴良へ返す。 「無事だったか…よかった」  東郷は呼吸を整えながら、乃亜とその後ろに隠された蒼を見る。 「はぁ…都市伝説ではなかったな……。まさか高校生とは…」  額に手を当て、困ったように(うつむ)いて首を振る。 「…いかがなさいますか?このまま番にするには、問題が多すぎます」 「できるわけないだろ!」  蒼のフェロモンにあてられラット状態になりかけた東郷と、冷静過ぎる顔を微塵も変えない貴良の表情が違い過ぎて怖い。  乃亜の後ろで、蒼が喘ぎながら身をよじる。 「…とりあえず、親の方は涼に任せてきた。この子の急なヒートは俺の責任だ。俺がなんとかする」  動揺や焦りとは無縁そうな冷徹王の、困惑した表情。 ――あぁ…、蒼と一馬さんは、運命の番なんだ……。  会った瞬間の、衝突事故のような衝動。  出逢った瞬間に惹かれ合うなんて、ウソだ。  出逢った瞬間、驚き過ぎて、困惑してしまう。  乃亜は蒼を守るように肩を抱きしめた。  体が熱い…。  中学生までは、本気で蒼の番になれたらいいな、と思っていた。  高校へ入ると、運命の相手に遭遇してしまい、蒼の番になりたいということはいつしか忘れていた。  そして、相手を自分で選べないということを、ようやく受け入れてきたというのに。 ――このまま蒼を手放したくない!  声を掛けたのは貴良だった。 「北山様、ここは一端、一馬様に任せましょう。このままでは緑川様が辛いだけです。合意なく(うなじ)を咬んで番にすることは、今の時代、違法です。法を犯すことまでしません。少しヌクだけです。最後までやりませんから。緑川様を離して…」  貴良が、優しく乃亜を(さと)す。  より強いαを求めてフェロモンを出し、αを受け入れて子孫を繋いでいくために起こるシステム。そのシステムに(のっと)ればヒートは治まる。  本能のみで生きていけるのなら、それでこの事態を治めることはできる。  しかし、Ωだってαだって、感情と理性を持ち合わせた人間だ。そのままそのシステム通りに行動するわけにはいかない。  発情した熱は放出しないと体の中で激しい劣情となって暴れ狂う。  自分だってΩだ。番や恋人のいないΩの発情期がどれだけ苦しいかなんて、充分過ぎるくらいにわかっている。  乃亜の腕の中でもがき苦しむ蒼の姿に、涙がこみ上げる。 「北山様…」  貴良が乃亜の肩を強く抱きしめると、乃亜はようやく蒼から体を離した。そして、そのまま貴良の腕にしっかりと肩を抱かれて、隣のリビングへ移動する。
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