1章-4 別れ

6/10
前へ
/260ページ
次へ
 蒼が検査室の中に入ってどれくらいの時間が経っただろうか。  時々、物音や人の会話とおぼしき声が聞こえるものの、何をしているのか、何を話しているのかまではわからない。  自分なんかじゃ、心細さは変わらないとわかっていつつも、最後まで付いていてあげようと思い、貴良は椅子から立ち上がる。  ドアが空き、看護師が貴良を招き入れた。  蒼はベッドに移され、点滴をされていた。  タオルケットを掛けられているが、側にあるカゴには、今朝、貴良が蒼のために用意してあげたベージュのパンツがきちんと折りたたまれて入っているところをみると、下は何も身に付けていないのであろう。 「途中でヒートを起こしたから、抑制剤の点滴してる。落ち着いたら色々説明していいかな?」  南川がパソコンのモニターから貴良に顔を向け、言った。  だが、貴良の視線は蒼に向けられたままだった。  蒼は点滴につながれていない方の腕で目元を覆っていた。  ヒートがまだ鎮まらないのか、呼吸が荒く、汗が噴き出している。  貴良はカバンの中からハンドタオルを取り出すと、蒼の額の汗を拭った。  蒼が腕を外し、貴良だとわかると少しホッとしたような顔を見せる。  蒼の手にタオルを握らせた。 「一馬君は、来ないの?」  南川の質問に、貴良は頷いた。 「何?貴良ちゃんは、一馬君の番が現れたときに世話係になるために雇われていたの?」 「…まぁ……、そんなところです。普通に就職できる体ではないので」 「…。みんな、必死だよな」  強くはない抑制剤でも、経口投与よりは点滴で入れた方が効いてくるのが早い。  蒼の様子が落ち着いてくると、身なりを整えさせるが、ぼんやりしているので横にしておくことにした。  貴良はベッドの脇に椅子を置いて、そこに座り、蒼の手のをしっかりと握っていた。  南川は検査室のパソコンモニターに、超音波の写真を並べ、その手前に血液検査の結果を表示して話始める。 「まず抑制剤だけど、今認可されているもので使えるのは1種類。昨日飲んだ市販の薬。あれと同じものであれば大丈夫。今点滴したのも、同じ種類のだから。緊急用の抑制剤を常備してあるところも最近は増えたけど、あれ使うと危険だから使われないように気を付けてね。学校には伝えておいて。…もうちょっと強いものも使えると楽なんだけどね~」 「使えるものがあるだけ…よかったと思います」  貴良がボソッと言う。  「そうだね」と相槌を打って、抑制剤の検査結果を画面から消す。 「問題は、こっち」  と出したのが、先程の超音波検査で取った写真と、ホルモンなどの数値が書かれた検査結果だった。 「ここに写っているのが子宮。見える?」  と、パソコンモニターの写真に写るものをカーソルで示す。 ――あぁ…本当に、僕の体の中にあるんだ…。  蒼はうるんだ目で自分の体の中にあるものを確認する。 「年齢やヒートの状態から考えても…ちょっと発育が遅いかな。子どもが産めるかどうかは、1年後くらいにもう1回検査してみないと何とも言えないけれど、今は負担が大き過ぎるので気を付けてね…って、それは一馬君に言っておくか。今のままではたとえ妊娠しても、それを継続して出産まで無事にたどり着くことは不可能に近い。リスクが大きいから避妊はちゃんとしてね」 ――子宮もあって発情期も来たのに、子どもが産めないなんて、Ωとしては役立たずじゃないか…。  視線を天井に移し、自分の今の状況をどう理解していいのかに悩む。何も返す言葉は出ない。  その蒼の様子に南川は「後で一馬君に電話しておくね」と貴良に言う。 「あと、男性のとしての生殖能力はないので、この先まぁ…女性とご縁があって、子どもを作ろうと思っても、それは残念ながら…。一応性感帯としての役割は残っているから、ヒートのときにヌクと楽になるから」 「……」  もう、何かを喋ることも考えることも億劫だった。 「お薬は今のところ抑制剤だけでいいから。しっかり食べて、よく寝て、無理をしないこと。君の人生はこれからだ。目一杯、東郷一馬を利用して、自分の生きたいように生きればいい。Ωって言われると、みんな人生終わったような顔をするけれど、君はΩである前に『緑川蒼』って高校生でもあるんだから」  …と、言われても、今は何も考えたくない。 「午前中の診療時間終わったから、ここで少し休んでいっていいよ。僕はもう片付けして帰るだけだし。ってか、俺、今日休みだったんだよね~ははは~」  南川はドクターコートを脱いで肩にかけると、いつもの笑顔に戻ってひょうひょうと笑う。 「処方箋、持って来るね~。請求書は東郷に回していいんでしょ?…あ、ついでに一馬君にも電話もしてくるわ」  貴良にそう言って部屋を出た。  蒼にとっては辛い人生の幕開けにしか感じられない時間だった。  Ωだった。  しかも、繁殖に特化したΩ性であるはずなのに、子どもを作れない。  そんなの、東郷一馬は必要とするのだろうか?  必要とされないなら、自分はどうやって生きていくのだろう?  Ωの雇用が進んできたとはいえ、発情期があるから就職の制限もあり、差別もなくなったわけではない…。  東郷一馬を利用して生きる?  どうやって?  父さんや母さんはどう思うだろうか?  両親も祖父母も、兄も妹もαの家に生まれ、αであることを期待されて生きてきたのに。  なぜ、自分だけΩに生まれてきてしまったのだろう…?  今まで築き上げてきた自信も誇りも、わずかな願いも、何もかも崩れ落ちた気分だった。
/260ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3251人が本棚に入れています
本棚に追加