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貴良は「体調が悪くて」とだけ専務に言って、涼と仕事を代わった。
専務は少し不満そうな顔はしたものの、事情を察したらしく了承した。
貴良の妊娠は鈴江にだけ伝えたが、秘書室のメンバーも、副社長や常務達まで何となく察しているようだった。
10月に思いがけず職場でヒートを起こし、バタバタと慌ただしく早退してから1ヶ月…。
――うん………。バレているよな。
と、みんなの気遣いが気まずい。
だが、不安定な貴良の体を思って、何も聞かずに、「大事にしろよ」「無理するなよ」と声を掛けてくれるのは、正直嬉しかった。
「涼と貴良は暴走列車のブレーキだからな。2人に何かあったら、我が社は衝突事故で大破だ」
と、副社長は冗談を言って、αの秘書を連れて外へ出掛けていった。
副社長は、一馬の祖父の弟の息子。親戚であっても一馬の何でも1人でやっていく暴走を止めることはできない。
それなのに、涼と貴良の忠告は素直に聞くものだから、貴良に辞めたれては困ると切実に思っているのは、一馬や鈴江ではなく、他の役員達なのかもしれない。
「一馬様が丸くなったのは…蒼様のお陰だと思うんだけど」
貴良が、口を尖らせて、こっそり涼に耳打ちする。
「一馬様と蒼様が一緒に暮らせるようにサポートしているのは貴良なんだから………いいんじゃない?東郷の冷徹王もΩで溶けるようになったか、って揶揄われるけど。うちの一馬様は半解凍くらいが丁度いいよ」
「何それ。それより、専務のお茶の時間だから。よろしくね」
貴良は機嫌も顔色もよく社長室に消えた。
蒼は、来年受ける司法試験予備試験の準備を始めたが、気分転換も兼ねてキッチンに立つ。
貴良は昼過ぎにはその日の仕事を終わらせて日向に引き継ぎ、一馬のマンションに来る。
蒼にはまだ、貴良の事を伝えてはいなかった。
今日は、サラダにグレープフルーツを混ぜようと、貴良は皮を剥いていた。
蒼はジャガイモと玉ネギの入った出汁に味噌を溶かしながら、チラチラと貴良の顔を見る。
「顔色悪いけど…大丈夫?」
味噌汁を完成させて、貴良の顔を覗き込む。
正儀とすみれの結婚式を欠席した次の日は、クリニックに行くからと休んだ。
今日はもう大丈夫だから、とマンションへ来たが、ボーッとして元気のない貴良を蒼は心配する。
そろそろご飯も炊ける頃だ。キッチンに匂いが漂う。
「……」
貴良は「大丈夫」と言おうとしたが、口を手で押さえてトイレに駆け込んだ。
驚いて蒼は煮物の火を止め、貴良を追う。
トイレから、嘔吐きが聞こえるが、鍵が閉められてしまった。
「貴良さん、大丈夫?」
蒼は声を掛けるが、貴良の返事はない。
どうしよう?涼に連絡した方がいいだろうか…?と、オロオロしていると、トイレのドアが開いて貴良が出てきた。
「申し訳ありません。ちょっと気持ち悪くなって…」
と言いながら出てきたが、またトイレに逆戻りして吐く。
蒼は貴良の背中を擦りながら、
「涼さん呼びましょうか?」
と言うが、貴良は首を横に振る。
「大丈夫です。すぐに落ち着きますから…」
と、水を流して、その場に座り込む。
「大丈夫ですよ…どこも悪くありません。とんでもない姿を見せてしまいましたね」
ぐったりしながらも、蒼の顔を見て微笑む。
「貴良さん…もしかして?」
蒼の視線が、貴良のお腹に移動したのを見て、貴良はゆっくり立ち上がる。
「…だから、大丈夫です」
貴良は蒼に伝えようかどうしようか迷っていた。が、迷っている間にバレてしまい、苦笑いした。
何事もなかったかのように食事の支度に戻ろうとした貴良を、蒼は引き止めてリビングのソフィアに座らせる。
「食べ物の匂いで気持ち悪くなったんでしょう?あとは僕がやるので、ここで休んでいてください」
蒼の真剣な顔が可愛いなと、貴良は不覚にもそんなことを考えてしまう。
ソファに横になった貴良に、蒼はタオルケットを持ってきて掛けた。
「涼さんが来るまで寝ていたらいいですよ。ノアも去年の今頃は寝てばっかりいました」
そう言われて、貴良は乃亜の家に行った時に抱かせてくれた赤ん坊の、柔らかい温もりを思い出した。
――あぁ…来年は、自分の子を抱けるんだ……。
悪阻の気持ち悪さとだるさで、体はかなり辛いのに、赤ちゃんが自分の中で育っているのだと実感できて、貴良は逆に安心できた。
食事の支度の続きを1人でしている蒼の背中を眺めながら、貴良はウトウトと眠りに落ちていく。
涼は一馬と一緒に帰って来た。
蒼はドアの開く音に、慌てて…でも足音を立てないように玄関へ急ぐ。
そして、入って来た2人に、「シーッ」と人差し指を立てて口に当てた。
「「…?」」
「おかえりなさい。貴良さん、寝ちゃったの。静かにしてね」
と、2人のスリッパを並べる。
「涼さん、晩御飯食べて行ってください。貴良さん、帰ってから支度できないでしょう?」
蒼のニコニコ笑っている顔を見ると、貴良の妊娠を知ったのだということがわかる。
リビングに行くと、ソファで貴良がタオルケットを被って眠っていた。
涼はその寝顔を愛おしそうに覗き込んで、フフッと笑った。
――穏やかな顔をして……。
春になったら貴良と涼は、次太郎の屋敷に住むことに決めた。
仕事を再開すれば、子どもの面倒を貴良と涼の2人だけで見ることは難しい。
次太郎の屋敷に住めば、白藤やスミ達を頼ることもできる。
悠馬は大学進学を機に、マンションで1人暮らしを始めると言っている。
寂しくなるから、白藤にも次太郎にも、一緒に住んでくれるのは嬉しいと言われた。
次太郎夫妻だけで済むには無駄に広い屋敷も、貴良と涼が住めば幾分マシになり、子どもが生まれれば寂しさも減るであろう…と。
たった2年半しか過ごさなかった貴良の部屋がそのまま残されていたことも、決め手になった。
全然使われていない客室を子ども部屋にしたり、キッチンを付けるなど、3階の一部をリフォームすれば、今住んでいるマンションの部屋よりも断然広く、立派な住まいになる。
貴良が妊娠したことは白藤にはすぐに知らせたが、次太郎に伝えたのは12月も半ばを過ぎた頃だった。
「みんなコソコソ何か隠していると思ったら!」
と、拗ねたが、貴良が次太郎の屋敷に一緒に住みたいと言ったことで、一瞬にして機嫌は直った。
それでも時々…、
「僕はそんなに口が軽くないよ」
と、白藤に拗ねているらしいが…。
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