1章-5 夢うつつ

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 朝、目を覚ました蒼は、パジャマ姿のまま部屋のドアを開けた。  キッチンに立つ貴良の姿が見える。それは、ここに来て見慣れた景色。  テキパキと朝食の準備をする貴良の後ろ姿は、背筋がピンと伸びていてきれいだった。  しかし、今朝はいつもと様子が違う。  少し大きめのYシャツを着て、いつものスキニーパンツと、黒いエプロン。  大きめの服を着ているイメージのない貴良が大きめのYシャツを着ているのも不思議だが、その襟をつまみ上げて匂いをクンクン嗅ぎ、うっとりした顔で立ちすくんでいるのも不思議な感じがした。    貴良は蒼の姿に気付くと、ハッとして匂いを嗅ぐのを止める。 「おはようございます、蒼様。今朝はスッキリ起きられましたか?」  蒼は「おはようございます」と言って頷いた。  貴良の様子がいつもと違うが、部屋の中の空気も少し違う…。  その時、バスルームのドアが開き、バスローブ姿の東郷が髪を拭きながら出てきた。  蒼と東郷の目が合う。 ――東郷さんが居る?! 「ああ、起きたか。おはよう」  東郷が寝起きの蒼を愛おしそうに目を細めて見る。  部屋の主なのだから居てもおかしくはないのだが、まさか居るとは思わなかった姿を見た蒼は驚いて固まる。 「貴良、涼はどうした?」  固まったまま動けないでいる蒼をそのままに、東郷は貴良に話しかけた。 「着替えるために一端帰りましたよ。すぐ戻ってくるそうです」  「そうか」と言って、頭を無造作に拭くと、タオルを肩に掛け、蒼に向き直る。  オールバックの髪は洗われ、ボサボサの洗いざらし。見覚えのある姿とはかなり違うが、二重の大きな切れ長の目は紛れもなく東郷一馬だった。 「私が怖くはないか?」  東郷に優しく話しかけられ、蒼はおずおずと頷く。 「では、一緒に朝食を食べよう。着替えて顔を洗っておいで」  切れ長の目を細めて、蒼を見つめる。  寝起き姿も可愛らしい蒼に触れそうになり、東郷はそれだけ言うと自分の寝室に入った。 ――なんで?なんでいるの?  蒼はドキドキする心臓を落ち着かせようと必死だった。  だか、一晩中抱きしめていた東郷の枕が目に止まり、冷や汗が出る。 ――夜、枕無くてどうしたんだろう?  蒼は部屋を右往左往してみたが…、とりあえず着替えることにした。  そぉ~っと部屋を出ると、東郷はタブレットで何やら確認をしながら、貴良にネクタイを結んでもらっている。  今日はグレーの三つ揃いスーツらしい。Yシャツとベスト、スラックス姿だ。  髪も既にオールバックに整え、あとはジャケットを着れば『東郷の冷徹王』の完成、といった感じだ。  対照的に、蒼の顔はまだ寝起きのまま。髪の毛も少し寝ぐせがついている。  慌てて洗面所に駆け込み、顔を洗って、寝ぐせを直す。 「朝は比較的落ち着いているのか?」 「そうですね。午前中は落ち着いて勉強なさっているようです。午後からはどうしても体温が上がってくるのと薬の効き目が切れてくるのとで辛そうですが、お昼寝をして過ごされています。夕方にもう1度薬を飲まれるので、それで夜まで落ち着いて過ごせるようですが…昨日は…、少し、寂しくなってしまわれたようですよ」  洗面所から出てくると、貴良と東郷の会話が聞こえてくる。 「…いろいろとすまなかったな、貴良」 「いいえ。一馬様が蒼様を怖がらせないように…というお気持ちもわからなくもありませんが」 「発情期中にαが居ない辛さもわかる…といったところか?」 「…まぁ。…蒼様は寂しくても、寂しいと口に出して言いません。ただ黙って耐えてしまわれます」 「明日の午後に伊予に来てもらう。私もその時間には戻るから、涼と一緒に帰っていいよ。そろそろ貴良も巣作りしないと辛いだろ?貴良を借りっぱなしだったから、涼の機嫌も悪くて最悪だった…」 ――ここへ帰って来なかったのは僕のため? 「あ、蒼様、朝食ができましたよ」  貴良が蒼の姿に気が付いて声を掛ける。  蒼は頷いて、ダイニングテーブルに近づき、どこに座ろうか悩む。  しかし、貴良は迷わず東郷の横にご飯をよそったお茶碗と、みそ汁をよそったお椀を並べるので、そこに座るしかなかった。東郷が蒼を見下ろす視線を感じて緊張する。 「貴良、なぜ卵焼きが甘い?」 「蒼様は甘いのがお好きです」  東郷が卵焼きを食べて不満そうに言うと、貴良がピシャリと言い返す。 「…そうか」  あっさりと引き下がる。 「貴良の作る食事はおいしいか?」  東郷はガツガツと凄い勢いで食事を口に運ぶ合間に、蒼に話しかけてくる。  その度に、蒼は肩をビクッ!ビクッ!と震わせながら、頷いて返事をするだけだった。  どんぶりのような茶碗でご飯をさっさと食べてしまうと、お茶を飲みながら、蒼の食べている姿を眺める。  蒼はひじょ~~~に、食べにくい。 「今時の高校生は、少食なのか?」 「いえ、一馬様が大食いで、蒼様が少食なだけです。このお体で一馬様並に食べていたら、どこに入るんだ?って感じですよね」  貴良も食事をしながら、東郷に突っ込みを入れる。 「相変わらず早食いですよね。きちんと噛んでくださいね」  家の中では貴良の方が強いな…と、蒼は東郷と貴良の会話を楽しそうに聞いていた。2人が話をしていると、少しづつ緊張がほぐれるのだが、どうしても東郷に直接話かけられると緊張してしまう。  食事を終えて、抑制剤を飲む。 「薬は…飲んで気分が悪くなったりしないか?」  すっかり蒼の日課となった事を、東郷は気に掛ける。 「眠くなるけれども…大丈夫です」 「そうか。明日、南川先生が来てくれるから、何かあったらちゃんと相談するんだぞ」 「…?はい」  南川先生は往診もしているのか?と、蒼は首を傾げたが、 「幼馴染をからかう材料を見つけに来る、単なる物好きですよ」  貴良が鬱陶しそうに言う。 「ついでに私の抑制剤も頼んだら、過剰投与だって、ガッツリ怒られた…」 「5、6本打っても死にそうにないですけどね、一馬様は」 「貴良ちゃん…それ、どーゆー意味?」  「さぁ~?」とすっとぼけながら、Yシャツの袖をくんくん嗅いでいる。  ただの上司と部下に見えない仲の良さが、蒼には不思議だった。  着替えるために帰宅した涼が戻ると、東郷は出掛けて行った。  今夜は会合で遅くなるので、近くのホテルに泊まるかもしれないが、明日は昼過ぎに戻ると言う。  居たら居たで何を話していいかわからないが、今夜も居ないのかと思うと少し寂しかった。  東郷と涼が出かけた玄関を、蒼と貴良の2人で寂しく見つめた。 「それ…涼さんが昨日来ていたシャツ?」  貴良は、蒼の顔を見て「ふふっ」と笑う。 「ペパーミントのような匂いがします」  目頭と目尻の切込みが深い貴良の目は、微笑んだり目を細めるとスッと長く、流し目をするとゾクゾクするほど色っぽい。黒い瞳は、漆黒の闇を思わせる怖さがあるが、青白い肌と相まって生身の人間とは思えない妖艶な空気をまとっている。  ただ、今日は顔色がいくぶん上気して、頬に赤みがさしていた。  αとΩは番になれば、お互いにしかフェロモンの香りを感じなくなる。  蒼には涼の香りがわからないし、貴良の香りは涼以外誰にも分らない。  自分が東郷の香りを嗅いでホッとするように、貴良もまた涼の香りを嗅ぐとホッとするのだろう…と、蒼は貴良に親近感を覚える。 「僕の面倒をみるためにここにいたから…涼さんに会えなくて寂しいですか?」  キッチンの片付けを始めた貴良におずおずと質問をする。 「…まぁ~、寂しくない…と言えば嘘になりますね」  蒼はモジモジとテーブルの側に立ったまま、貴良の動きを目で追う。 「来週、2人で1週間有給休暇をもらうことになっているので…、大丈夫です」  「休暇?」蒼が目をパチパチ瞬かせると「まぁ…番休暇です」と貴良が顔を赤くしてはにかんだ。 ――あれ?何か…可愛い…。 「おかずは冷蔵庫と冷凍庫に作って入れておきますので、来週は適当に出して食べてくださいね。ご飯を炊いたり、お味噌汁や簡単なおかずは、一馬様が作ってくれます。外食したかったら、お好きなものを言えば食べに連れて行ってくれますよ。ファミレスとかファストフードも大丈夫な人です。涼が居ないので、一馬様も夜の会合や出張には出かけないと思います。残業もしないでさっさと帰って来ると思いますので、独りぼっちにはならないですよ。学校への送り迎えは…、秘書室にいるβが担当するかと思います。本邸の執事か使用人が送り迎えに来たときは拒否してくださいね」 「…?」  蒼がキョトンとしている。 「明日からは一馬様もここにいますよ。ここ、一馬様の普段のお住いですから。東郷の本邸にはお祖父様がお住いで、広すぎて遠くて日常生活を送るのに不便なので、ここで生活しています。まぁ…お祖父様が一緒では気も休まりませんしね。本邸の使用人はお祖父様の指示で動きます。一馬様の指示で動くのは本社の秘書室の人間だけです。私が居ない間に、知らない人が来たときはきちんと確認してくださいね」 ――明日から東郷さんと一緒の生活?!  貴良に面倒をみてもらっている生活が快適過ぎてすっかり忘れていた。  東郷一馬に引き取られて、一緒に生活するために自分はここに来たのだということに…。  忘れていた現実を思い出し、蒼の顔がひきつっているのを見た貴良は、 「明日から私は仕事が終われば自宅へ帰ります。朝、学校へお送りするためにここへ来るまでは、一馬様と2人きりです」  と、(とど)めを刺すように言う。 「ちゃんと嫌なことは嫌、やって欲しいことはやって欲しいとはっきり言わないと、鈍感αは気付いてくれませんからね」  居ないと寂しいと感じるのに、いざ一緒の生活が始まるとなると、急に緊張してきた。 ――ぼっ…僕…、どうなるんだ?!  緊張していたのか、発情期を終えたのか…。  東郷と一緒に朝食を摂ったその日は、ヒートすることなく1日を終えた。  だが、落ち着かなくて勉強は進まなかった。
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