1章-8 溺愛

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 貴良の居ない1週間は寂しいというか、心許(こころもと)ない感じがして落ち着かなかった。  それでも、目を覚ますと一馬がキッチンで朝食と蒼のお弁当を作っている姿は、幸せな気持ちになる。  学校の送迎は秘書室のβが…と言っていたのに、一馬が2シーターのスポーツカーで送り迎えをしてくれる。  月曜日に登校した時は、車から降りる間際、 「あ、忘れてた」  と、言って蒼を引き寄せ、首筋に吸い付いてキスマークを付けた。 「えっ?!ちょ…」  焦る蒼を「いってらっしゃい」と笑顔で送り出す。  間の悪いことに…?それを乃亜に見られてしまった。 「朝から…神聖なる学び舎で何してんの!」  と、怒られてしまうが…。 「マーキングしてもらって来いって言ったの、ノアじゃん」  と、蒼は唇を尖らせる。そもそもの原因は乃亜じゃないか。 「ボクはここで付けろとは言っていません。家で付けてもらってきてください」  まさか、乃亜に怒られるとは思ってもみなかった。  …が、確かに威力は絶大で、蒼のモテ期はあっけなく終了した。 ――なんか僕…溺愛されていませんか?  と、週末から今朝までを振り返って、蒼は頭を抱えた。  これで「人を好きになるということがわからない」なんて言われても…困惑してしまう。  東郷グループ本社の社長室に成宮涼の姿がない時は、社長は大抵1人で仕事をこなす。  スケジュールの確認はパソコンに入っていれば、勝手に自分で見て確認するし、お茶やコーヒーが飲みたければ、給湯室に行って自分で淹れてくる。  そこが社長らしくないといえばないし、26歳らしいといえば26歳らしいのだが…。  秘書室のメンバーも、いい加減慣れて、若き東郷グループのトップを適度に放っておいてくれる。下手に手伝われる方が効率が悪くてイライラするのだ。  社長に阿吽の呼吸でサポートできるのは、成宮涼と成宮貴良しかいなかった。  が、その2人が居ない時は、必要があれば誰かが代わりをしなければならない。  2人が番休暇に入ると、秘書室内はいつもと違う緊張感に包まれる。 「お茶淹れたから、飲まない?」  秘書室に残っていた社員に、お茶を入れて配るのは一馬だった。  3カ月に1度、こんなことが起こる…。  これにいちいち恐縮していたら、ここでの仕事はできないものとみんな心得ている。 「一馬様、貴良さんから頼まれていた蒼様のお迎えは…、私、行かなくてもよろしいのでしょうか?」  一馬が淹れてくれたお茶をすすりながら、鈴江は言う。40代半ばのβ女性で、役員に付かずに秘書たちのサポートをするのが主な役目の社員だが、元々は一馬の父の秘書だった。 「私に用事が入った時だけ頼むよ。涼が居ないと、暇だし」  秘書室の空いている席に座って、一緒にお茶を飲みながら言う。 「私用を頼んじゃって申し訳ないけれども」  と、付け足す。鈴江はその訳を知っているから、「いいんですよ」とにこやかに返す。  東郷家の使用人はほぼほぼ祖父母の言いなり。当主に仕えている使用人ではないことくらい、秘書室にいればわかる。  自分の大切な人を預けられる安全な存在と一馬に認識されていることが、鈴江にとっては誇りだった。 「貴良さん、蒼様がよっぽど可愛いんでしょうね~。心配してらっしゃいましたよ~」 「うーん、気が合うみたいで…それだけが、安心材料かなぁ…?私は…どうやら嫌われるようなことばかりしているようだ」  一馬は、椅子の背もたれに広い背中を預けて、項垂れる。 「あらあら。高校生は気難しいですからね。うちの子も、高校生になりましたが…何を考えているのか、さっぱりわかりません」 「…?私は親の立場で蒼を見なければならないのか?」  一馬が首を傾げると、鈴江もつられて首を傾げ、2人で笑う。  一馬の近くにいて、気を許している人間には、『冷徹王』とは誰のこと?と思うくらい、気さくで温かい人間味のある青年に写る。 「ああ、蒼の個別懇談に行かなければならないんだよ。夏休みの夏期講習が終わったあたりにでも…って言われているんだけど。涼が戻ってきたらスケジュール調整してもらわなくちゃ」 「あら、一馬様が行かれるんですか?」 「…保護者……だから?」 「ああ~、でも蒼様ならいいな~。うちの子の懇談ときたら…、行って先生の話を聞けば聞くほど、気が重くなります」  鈴江の嫌そうな顔に、一馬は笑う。  自分が高校生の時の懇談には、親も家の者も誰も来なかった。  蒼のことだから、悪い話を聞くことはないだろう…。後は進学の話かな?と、一馬は鈴江の話す我が子の愚痴を聞きながら、ニコニコと笑ってお茶を飲んでいた。  お茶を飲み終えた頃、一馬に電話が掛かってくる。 「部屋で取るから回してくれ」  と言い、鈴江に飲み終えた湯呑を頼んで、社長室に消えた。  電話の相手は祖父だった。  70も半ばを過ぎ、80歳を目前にした前当主。  一馬に当主の座を譲っても今なお、強い影響力があった。 「会社へ電話を掛けて来るなんて、いかがなさいましたか?」 『お前の携帯に掛けても、出ないからじゃないか』 「ああ~、最近いろいろと忙しかったので…」 『随分、緑川財閥に肩入れした融資をしたもんだな』 「…潰すわけにはいきませんから」 『ふんっ…まぁいい。運命の番とやらのためか』 「…」 『来週の土曜日に親族会を行う。折角の機会だ。蒼の顔見世でもしたらどうだ?貴良と成宮も連れてきたらいい』 「…そうですね。成宮は今週は番休暇中ですので…休暇が終わったら聞いてみます。貴良と蒼を連れて行っても…お祖母さまは大丈夫なのですか?」 『大丈夫も何も。あいつがヒステリーを起こしても、お前も貴良も聞き流すじゃないか』 「まぁ…そうですが」 『蒼はダメなのか?そんな弱いメンタルじゃ東郷家の当主の番なんぞ、務まらないぞ』 「…当主の番ではありません。蒼は蒼です」 『…ったく、誰に似たのやら……。とにかく、1度顔を見せに連れてきなさい』 「…はい」  一馬は溜息をついて受話器を置いた。  そろそろ来るなと思っていた呼び出しがとうとう来た。  東郷の本邸は、本来ならば当主である一馬の住まいだ。  だが、前当主が高齢で引っ越すことを望んでいない。かと言ってやっと祖父の元から離れて暮らせるようになったのに、今更同居もしたくないと言う理由で、本邸に祖父を住まわせて、自分はマンションで暮らしている。  祖父はまだいい…。問題なのが祖母の方だ。  祖父にはαの正妻と、Ωの愛人が3人いた。愛人は2人亡くなり、1番若い愛人が本邸で祖父母と一緒に暮らしている。  正妻である祖母の子は、一馬の父東郷初馬(とうごうはつま)だけだった。  亡くなった愛人の2人には、それぞれ4人づつαの子どもがいた。そのうちの1人が蒼と一緒にソフィア学園の生徒会執行部をやっている東郷悠馬の父、東郷次太郎(とうごうつぐたろう)だ。  本邸に居る愛人には、2人のαと1人のΩの子どもがいる。  祖父の子どもたちはそれぞれαやΩと結婚し、孫もいて親族一同が集まると、何とも賑やかなことになる。  祖父の兄弟姉妹や従兄弟を加えると、親族会ではなく大々的なパーティになってしまうが、そこまでは招集しないようだ。  その中で、子どもは1人しか恵まれず、しかもその子が失踪して行方不明という境遇にあるのは祖母だけだった。  東郷家の中で一馬だけが、祖母の血を分けた親族。  Ωが夫である祖父を奪い、どんどんαを産んでいく。夫だけでなく息子までΩに奪われる。  祖母の中でΩは憎むべき存在としてどんどん膨れ上がっていた。  一馬が優秀に育ち、東郷家の当主になったことだけが祖母の唯一心の救いだったのだ。  だが、今度はその孫に運命の相手…Ωが現れ、一緒に暮らしているという。  祖母の心中は甚だ穏やかではないことは、察するに余りある。  そもそも、一馬が「運命の番を探す」と言って、α女性とのお見合いを拒否した時も、「そんなものは見つかるわけがない」と高を括っていたのだ。見つからなければ諦めておとなしくお見合いで結婚するだとうと…。  それが、見付かったというものだから青天の霹靂以外の何ものでもない。  蒼が1人で発情期に悶えている最中でも来る本邸からの干渉を、ブロックするのに必死だった。  貴良が「本邸の執事か使用人が送り迎えに来たときは拒否してください」と忠告したのも、隙あらば蒼を本邸に連れてこようとする祖母の圧力を感じていたからだ。  無理矢理他のαに項を噛まれて番にでもされたらたまったものではない。Ωである蒼が気に入らなくて、潰しにかかるのは容易に想像がつく。  かと言って、いつまでも親族に紹介しないのも…。と、一馬は腹を括った。  幸い、Ωを母に持つ叔父叔母や、従弟たちは一馬に理解のある人が多かった。今は一馬が当主なのだから、祖父母の言いなりになる必要はないだろうと言ってくれる。  だからこそ、その叔父叔母や従弟たちに早々に蒼を紹介して、蒼の味方に引き込んでおきたかった。
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