1章-9 伏魔殿

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 屋敷の執事が車のドアを開け、玄関先には黒いスーツ姿の使用人とグレーのワンピースに白いエプロン姿のメイドが8人並んで、「おかえりなさいませ」と一馬と蒼を迎え入れる。    蒼はそこで、回れ右をして帰りたくなった。 ――なっ…なんだこの世界はっ…!  だが、一馬にそっと背中を押されると、逃げるわけにもいかない。 ――帰りたいよー!!  と、心の中で号泣する。 「しっかり背筋を伸ばして、顔を上げていろ。そんな顔をしていたら、舐められるぞ」  完全に伏魔殿の空気に呑まれてしまっている蒼の耳元に、一馬がそっと耳打ちする。  玄関ホールだけで、ちょっとしたパーティができそうな広さだった。  奥の大きな扉の向こうはホールで、東郷家主催のパーティは大抵そこで行われる。バルコニーから庭へ出ることも出来るという。  ただ、今日は内々の親族会なのでそんな広い場所は使わないとのことだった。  玄関ホールのすぐ右が応接室になっていて、来客はそこで対応する。  小さな部屋がいくつか並んだ所を通り過ぎ、中庭をぐるっと囲んだ廊下を渡ると食堂がある。  途中、お手洗いの位置などを確認しつつ食堂に向かう。  食堂の奥が厨房になっていて、既においしそうな匂いを漂わせていた。  食堂の奥は住み込みの使用人たちの居住スペースとなっている。  2階に祖父母の部屋や、一馬が幼少期に過ごした部屋があり、3階は客室となっていた。 ――広いっ!広すぎるっ!!  キョロキョロ見回しては恥ずかしいと思いつつも、見ずにはいられない。 「皆様、こちらに集まっていらっしゃいます。お食事のお時間まで、もうしばらくお待ちくださいませ」  と、通されたのは、食堂の隣の応接室よりもやや広い部屋。テーブルやソファ、かなり年季の入ったものと思わせるアンティークのサイドボードがあり、応接室よりもプライベートな空間だった。  部屋の中には、既に一馬の叔父叔母、従弟たちが揃っていて、一斉に一馬たちを注目する。  そして、親戚が次々と一馬に声を掛けていく中、 「蒼センパーイ!!」  と、聞き慣れた声を掛けて来る者がいた。  東郷悠馬。ソフィア学園の2年生で生徒会執行部の後輩だ。  蒼は、ずーっと後輩として仲良く接してきた悠馬に、一馬のパートナーとして紹介されるのが恥ずかしくて、苦笑いをして引いてしまった。    なのに!  悠馬は日向と同じで、乃亜に「鈍感」とか「能天気α」と言われるだけあって、蒼が恥ずかしそうにしていることに一切気付かない。  大好きな先輩を見付けて、嬉しくてじゃれているただの後輩になっている。 「初めまして、緑川蒼君?うちの息子が学校でいつもお世話になっているようで、君の話は悠馬からよく聞いているよ」  と、蒼の父とさほど齢が変わらなさそうな中年紳士に声を掛けられた。悠馬の父なのであろう、どことなく似ているが…一馬を20歳程老けさせてマイルドにしたら、こんな感じかな?という雰囲気の男性αだった。  東郷次太郎(とうごうつぐたろう)。  祖父の1人目の愛人の子で、祖父の子の中では1番の年長者だった。一馬が東郷家の当主にならないのであれば、次太郎が…と言われていたときもあるくらい一族の中では存在感がある。  東郷グループの会社や関連する企業の顧問弁護を引き受けている弁護士事務所の所長をしていた。東郷の本社ビルのワンフロアを使って、αの敏腕弁護士とパラリーガルを何人も雇っている。  次太郎の妻もαで、同じ事務所で働く弁護士だという。 「両親が夫婦喧嘩をすると、法廷でやり合っている感じ。どちらかが論破するまで終わらない」  と、悠馬が以前愚痴をこぼしていたのもわかる…と、蒼は悠馬の両親を見て思った。 「蒼先輩は進路決めました?」  と聞かれ、「まだ…」と答える。  悠馬も将来は弁護士を目指していて、T大の法学部を受験する予定なのだという。  先日、「叔父叔母、従兄弟たちと話をしてみると、自分の将来のヒントになるかもしれない」と一馬に言われたことを思い出し、 ――あぁ…こういうことか……。  と、蒼は納得した。 「Ωの社会進出が盛んになると関連した案件も増えてくるのだが、どうしても弁護士にはαが多く、Ωの人に寄り添った弁護をしにくい。もし蒼君に興味があれば大歓迎なんだけど」  と、次太郎が悠馬によく似た人懐っこい笑顔で、蒼に言う。 ――ん?スカウト?  とも、思ったが、まだ蒼にはいまいちピンと来なかった。  何も無理にやりたいことを探さなくったって、αと張り合わなくったって、Ωである自分が役に立つ場所を探せばいいのか…、と、なんとなくヒントを与えられたような気がした。 「僕、将来も蒼先輩と一緒に仕事ができたら嬉しいな」  悠馬は蒼がΩとわかった後も変わりなく接してくれる。蒼はそんな後輩を、単純に『可愛いヤツ』と思って、フフッと笑ってしまった。  先程までの緊張が弛む。  そこへ今人気急上昇中の若手代議士、東郷正儀(とうごうまさき)が、次太郎に声を掛けて来る。 「お前が抜けた後のうちが大変で~。優秀な子をスカウトしなきゃ~」  と、正儀の言葉に次太郎が答えている。テレビやネットでよく見かけるその人は、次太郎の事務所で弁護士をしていたのだという。  正義感の強さが禍して(?)、政治家になってしまったと笑っていた。  若いが…一馬の叔父なのだという。  つまり、一馬の父や次太郎と腹違いの弟。祖父の3番目の愛人の末っ子だという。  だが、一馬とさほど齢が変わらないように見え…、『この家はどーなっているんだ?!』と、蒼は固まる。人間関係図がさっぱりわからない…。  βの人口が今よりももっともっと多かった時代、βは希少種の存在すら知らずに社会の大部分を占めていた。そして、αはα同士で社会を形成し、そこにΩを囲って生きていた。αの妻の他にΩの愛人がいるのは、強いαにとって当たり前の事と考えるのが、その時代に人生のピークを過ごしてきたαの感覚だった。  そのため、祖父に愛人が多く、一馬の父に腹違いの兄弟姉妹が多い。  この、古い時代のαの在り方に嫌気が差してβ社会の中で生活することを選んだαの子孫が、日向のようにβ家庭に突発的なαとして誕生する要因ともなっている。αは、Ωのような発情期もなければ、今のような検査体制にもなっていなかったので、βになりすまして生活しやすかったのだ。  青春真っ只中にウイルス・ショックという時代の大きな転換期を経験した一馬の父や次太郎たちの世代は、祖父たちのようにΩを囲う事をしないαが増えた世代でもある。未だに古い時代を引きずっている者もいるが…。 「貴良、壁にくっ付いていないで、こっちに来たら?」  悠馬が、壁の側で怖い顔をしながら、使用人達の動きを見張っている貴良に声を掛けた。  無論…悠馬は、使用人が蒼に何かしでかしやしないかと貴良が見張っていたなどと思いもしない。 悠馬が貴良の手に触れようとして、母親に窘められる。 「悠馬、あなたもう小学生じゃないんですからっ!」 「あっ、そうだった。ごめんね」  悠馬も、悠馬の両親も、貴良がαに触られることに並々ならぬ嫌悪感を抱くことを知っていた。それは番持ちのΩが、番以外のαに抱く嫌悪感以上のもので、気安く触れてはいけないことも。 「ううん、大丈夫。…もう、高校生なんだもんね。早いね」  と、貴良は目を細めて悠馬を見る。  そんな2人を、蒼は不思議そうに見つめた。 「悠馬の両親が……私の養父母なんです。とは言っても、大学進学と同時に家を出ましたが…」  と、貴良がいつものクールな表情で蒼に説明すると、蒼は驚いてポカンとしている。悠馬とは1年くらいの付き合いになるが、彼の口から出るのは、一馬の話と両親の話くらいで貴良の話は一切したことがなかった。 「うちに居たのは高校生までで、大学へ行ってからは1人暮らしだったけど、一応、貴良の母です。ほら、悠馬が小学校の第二性検査でさっさとαって言われちゃったものだから…」  と、悠馬の母が苦笑いをして蒼に説明し、「元気だった?」と貴良に声を掛ける。  実際のところは1人暮らしではなく、涼との同棲生活。しかもそれは次太郎夫婦公認だった。  「貴良の母です」と自己紹介されたことに、貴良はむ痒さを感じてしまう。 「この前、秘書室に出かけて行った次太郎が、貴良が居たから久しぶりに声を掛けたら、次太郎様って言われたって、ショック受けて事務所に戻ってきたのよ~。お父様って呼んであげて…」 「…。申し訳ありません、仕事中でしたので、つい…」 「元気にしているかな~?って、覗きに行っても、最近居ないことが多いものだから寂しいわぁ。たまには家にも遊びにいらっしゃい。…って、これは涼に言っておいた方が確実ね。一馬さんにコキ使われているんでしょ?何かあったらすぐ私たちに言うのよ」  と、ハキハキとした声で貴良に話かける。対照的に貴良がたじろぐ姿は新鮮だった。 「誰がコキ使っていると…?」  ようやく親戚たちの怒涛の挨拶ラッシュから解放された一馬が、蒼たちの側に来る。 「一馬様以外に誰がいらっしゃると?」  スッと、貴良が通常モードに切り替わる。  一馬は眉をへの字にして、肩をすくめる。「あんまりだ」と言いたげだ。 「最近、蒼の面倒を頼んでしまっているので…オーバーワーク…ですかね?楽しそうですが」  フフッと笑うと、貴良は一馬から顔を反らせた。 「一馬さんの仕事の速さに付いて行けるのは、涼と貴良くらいですものね。ついつい頼ってしまうわよね。私たちも…貴良が元気で幸せにしているなら、いいのよ。たまには顔を見たいな~と思うだけ」  悠馬の母が貴良を見る眼差しは、本当の母のように暖かかった。 「小学生の悠馬の面倒をみて、勉強も教えてくれて、本当に助かったのに、私たちが貴良にしてあげられたことって…」  母が言葉に詰まる。貴良に昔話は酷だとわかっていつのについつい口にしてしまいそうになる。 「……お母様?」  貴良もそれだけ言うと、言葉が見つからなかった。  勉強嫌いのガキ大将だった小学生の悠馬を、勉強好きで、明朗快活だけれども実直で礼儀正しい少年に変えたのは貴良の影響が大きかった。  悠馬は小学生の時によく、貴良に勉強を見てもらっていたと思い出話をする。今、2年生の首席でいられるのは貴良が居たから…、と悠馬は優しい兄をニコニコと、でも少し照れながら見た。  昔の癖でつい貴良に触りそうになっては、慌てて離れる。  …悠馬の淡い初恋……だったのかもしれない。
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