第一部:回想編

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 思えば五歳のあの日から、僕はおよそ何かに執着するということが無くなってしまったように思うのだ。あの日幼稚園から帰った僕を待っていたのは、顔に白い布を掛けられて横たわる母の姿だった。祖父母も使用人たちも慌てふためく中、僕がまずしたことは、弟の秋江(しゅうこう)を膝の上に抱き上げることだった。当時二歳の彼は、何が起きたのかも分からないまま、ひたすら泣き叫んでいた。秋江をあやしながら僕は、父を見やった。彼は、母の傍らで静かに涙を流していた。その瞬間僕は、母の死の原因が、数日前に見たあの光景にあると、本能的に悟ったのである。  父の康成(こうせい)は、囲碁棋士であった。彼は若くして、王座・天元の二冠に輝いた。 『あなたのお父様は本当に立派な方なのよ』 『あなたも、お父様のようにならなくてはね』  同居していた父方の祖母は、僕が物心つくかつかないかの頃から、僕に繰り返し言って聞かせた。今から思えば、あれは僕と一緒にいた母に聞かせようとしていたに違いなかった。  祖母の実家は、タイトルホルダーも輩出した囲碁棋士の家系であり、彼女はいつもそのことを鼻にかけていた。対して、母の父親は、一介の碁盤商であった。何より母本人に、碁の知識は乏しかった。碁の強さでしか人を計れなかった祖母は、母のことを終始見下していたのである。  しかしながら、当時の僕にそんなことなど分かるはずも無く、僕はただ無邪気に父のことを尊敬した。だからあの日、母が父の忘れ物を届けに棋院に行くと言った時、父の仕事場を見に行きたいと言い張ったのである。それが母の死を招くとは、夢にも思わずに。
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