第一部:回想編

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『お父さんに、会えるの?』  僕は、心弾ませながら母に尋ねた。 『お父様は、お忙しいのよ』  母は、やや疲れたような顔で答えた。今から思えば、その時すでに、母の心は弱っていたのかもしれなかった。しかし、その時の僕はそこまで思いを巡らせることができなかった。母が棋院の事務員と話している隙に、僕は駆け出していた。 『白秋(はくしゅう)!』  母の慌てたような声が背後に聞こえたが、僕は無視して、父を探す探検の旅に出かけた。しかし、何という人の多さだろうか。僕はすぐに、自分の行動を後悔する羽目になった。元いた場所に戻ろう、そう思ったその時であった。遥か遠くに、父の姿が見えた。  ――お父さんだ!  僕は必死に、父を追いかけた。僕に気づかぬまま、父はどんどんどこかへ向かって歩いて行く。子供の足では、追いつくどころか差は広がるばかりだった。途方に暮れていたその時、父がどこかの部屋に入って行くのが見えた。  ――あの部屋まで辿り着けば、お父さんに会えるんだ。  単純にそう信じ込んだ僕は、夢中で走った。ようやくその部屋の前に到着すると、僕は何も考えずにドアを開けた。  あの時の衝撃は、今でも忘れられない。父が、見知らぬ若い男とキスをしていたのだ。もっとも五歳の僕には、まだキスの持つ意味は分からなかった。ただ一つ理解できたのは、父がその男にひとかたならぬ愛情を抱いているということだった。それは、父が彼を見つめる眼差しを見れば分かった。そして、僕を追って来た母の絶望的な表情からも。  母が自宅で首を括ったのは、その数日後だった。
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