第一部:回想編

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 三歳年下の弟・秋江は、小さい頃から処世術に長けていた。彼は上手く祖父母に取り入り、僕よりも可愛がられていた。もっとも、それ以外にこの家庭で生き抜く術が無かったのだろう。しかしそんな彼も、僕の影響か、父にはあまり懐こうとしなかった。  彼は外交的な性格で、子供向けの囲碁大会にも度々出たがった。しかしある大会の当日、父も祖父母も付き添えなくなる事態が起きた。仕方なく、僕が秋江を連れて出かけた。当時僕は十歳、秋江は七歳だった。  秋江ははしゃいでいたが、時折憂鬱そうな顔を見せた。理由を尋ねると、潤一郎(じゅんいちろう)も出るからだ、と言う。  潤一郎というのは、父の師であり、後に僕たち兄弟の師ともなる和倉泡鳴の一人息子である。泡鳴は、伝説の七冠棋士・妹尾安吾(せのおあんご)の宿命のライバルとも言われた高名な棋士であり、当時は棋聖と十段を保持していた。  その泡鳴の不肖の息子だったのが、潤一郎である。彼は、何かというと父親の威光を笠に着たが、当の本人の才能の無さは誰の目にも明らかだった。それだけならまだ、気の毒で済ませられたかもしれないが、潤一郎は追いつめられると反則行為に走った。そして父親は、息子への批判を一切認めようとしなかった。彼は、四十を過ぎて授かった一人息子を溺愛していたのである。 『お前が強くなればいいんだよ。反則しても敵わないくらい強くなれば、潤一郎だって何も仕掛けようが無いさ』  僕は秋江にそう言い聞かせた。思い返せば、潤一郎は僕を相手には反則をしなかった。当時の僕は、相変わらずプロになることを頑なに拒んでいたが、和倉門下の同世代の子供たちの中では抜きん出ていた。『すぐにでも院生になれるくらいなのに』と陰で囁かれていたような僕に対しては、反則をしても無駄だと、恐らく彼なりに悟っていたのだろう。
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