第一部:回想編

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 ――あの子に、何もしてあげられなかった……。  そんな思いに駆られながら、僕は会場入り口であの男の子を待っていた。会って、何を話すという明確な考えも無かった。それでも、このまま別れることだけはしたくなかったのだ。  やがて出て来たその子は、僕を見て驚いた顔をした。その大きな瞳にうっすら涙が滲んでいるのを見て、僕はたまらない気持ちになった。 『ごめん』  僕は思わずそう告げた。そしてふと思いついて、持っていた扇子を彼に押し付けた。それは母が亡くなる前、僕の誕生日にくれた、いわば形見であった。何故それをあげようと思ったのか、自分でも理由は分からなかった。ただこれがあれば、彼にまた会えるような気がしたのだ。  その子は扇子を受け取ると、ますます大きく目を見開いた。その途端僕は、自分でも信じられない衝動に駆られた。その柔らかそうな唇に、口づけたくなったのだ。父とあの男の光景を目にして以来、最も忌むべき行為だったというのに。  その時、僕ははっとした。一台の車がやって来て、運転席の男がその子に声をかけたのだ。親が来たことで我に返った僕は、全速力でその場を走り去った。  大会から帰るなり、僕は父にプロになりたいと告げた。その時、父は少し涙ぐんだ。彼の涙を見たのは、後にも先にも、母が亡くなった時とこの時の、二回きりだった。
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