夏の終わりの首切峠

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*  私が躁鬱病(そううつびょう)を発症したのは45歳の時だった。会社から都内の関連会社へ赴任を命じられたのとほぼ同時期で、最初は環境の変化によって生じるストレスで気分が落ち込んでいるだけだと思っていた。朝は鬱状態で何度も会社に遅刻を繰り返し、躁状態の時に上司に暴言を吐き、メンタルクリニックの受診をすすめられた。今まで真面目に働いてきたのにまさか自分が精神病を発症するなどとは思いもしなかった。診断後、薬を処方されたが、躁鬱病と医者に言われた事が受け入れられず、薬は飲まなかった。その為、症状は徐々に悪化した。  月に一度会う妻や娘にはそんな情けない姿は晒せる訳もなく、何とか隠していたが、六月の帰省時にズボンに入れっぱなしだったメンタルクリニックの診察券が妻に見つかり、病気が知られてしまった。そして、悪いことは重なり、暴言を吐いた上司が人事部に異動となり、私は適当な理由をつけられ、退職を余儀なくされてしまった。  妻にそれを告げると、彼女は青い顔をして言った。 『これからどうやって暮らしていけばいいの。私は今までパートもした事がないのよ。働くのなんてできないわ』  絶望だった。  妻は私の心配より、自分の心配事ばかりを述べ、どうしよう、どうしよう、どうしようと繰り返していた。その様子は私の症状をさらに悪化させた。  住宅ローンはあと15年残っており、娘の由香里は来年高校に進学予定だ。  私に似てあまり勉強が得意ではなく、公立高校への入学は難しいのでは、と夏休み前の懇談で妻は担任の教師と話をしたらしい。費用がかさむ可能性は高い。貯えが無いわけではなかったが、高校、大学、と、今から金がかかる時期に職を失ってしまった事は、悲愴感を煽った。  妻が一家心中を口にしたのは、私が仕事を首になり、1ヶ月も経過していなかったように思う。 『みんなで死にましょう』  朝は体が重く、布団から出るのに全神経を集中させ、汗だくになりながら起き上がる。倦怠感が強く、何も考えたくない。仕事どころか、自分という存在にまず疑問が湧いてしまう。その苦しさから解放されるのであれば、死というものはとても魅力的な響きを持っているように思えた。  娘の将来を潰すわけにはいかない、と思う一方で、その責任から逃れたい自分も居た。仮に自分が一人で死を迎えたとしても、娘と妻を益々不幸にしてしまう気がする。残して死ぬより、家族みんなで死ぬ方が幸せなのではないか、そう思い始めたらやけに納得してしまった。 『最後に家族みんなで出かけて、楽しい思い出を作りましょう』  妻の囁きに頷いたのは、楽になりたい一心からだった。そして、妻も躁鬱病を患っていると知ったのは、最後に出かける場所をどこにするのかと話している時だった。
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