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どれほどの間互いの吐息を貪り合ったのか。絡み合う舌先がいったいどちらのものであるのかさえ曖昧に感じ始めた頃になって、ようやく辰巳は顔をあげた。
「あー…、顎痛ぇ」
片手で顎をコキコキと鳴らしていれば、下から微かな笑い声が聞こえて辰巳はじろりとフレデリックを睨んだ。
「笑ってんじゃねぇタコ。誰のせいだと思ってんだ」
「ぅぅ……」
「昼間はしゃぎ過ぎた反動か? 急にしおらしくなってんじゃねぇよ、ったく」
ぺしりと額を叩く辰巳の手も、どこか優しい気がしてフレデリックは引き摺り上げた掛布に潜り込んだ。半分だけ覗いた顔が、僅かに赤い。
「キミに優しくされると……僕は何だかおかしくなるんだ…」
「あンだそりゃ。せっかく人が優しくしてやってんのにふざけてんのかてめぇ」
今度こそ鋭い音をたてて、辰巳の指がフレデリックの額を弾いた。
「痛いよ……」
「優しくされたくねぇんだろ」
そっけなく告げる辰巳を睨み、フレデリックは今度こそ布団の中へと潜り込んだ。こんもりと山になった掛布に辰巳が零した小さな笑みは、フレデリックが見たならばそれこそ顔を真っ赤にした事だろう。
◇ ◆ ◇
翌朝。目を覚ましたフレデリックは未だ眠る辰巳の上から躰を起こした。フレデリックが寝台を降りても、辰巳がぐっすりと眠っているのはいつもの事だ。
寝台を抜け出したフレデリックは、室内に備え付けられた電話へと歩み寄った。フロントを呼び出せばすぐさま返事が聞こえてくる。コーヒーと朝食を頼み、ついでに運良く空いていた貸切風呂に予約を入れて受話器を下ろす。
時計を見れば、時刻は八時を少し回ったところだった。そろそろ辰巳を起こさねば、真崎との約束の時間に間に合わなくなる。今日は一日、着物で京都散策を楽しむつもりだ。
辰巳の横たわる寝台に乗り上がり、ゆっくりと手を伸ばす。黒く艶やかな髪を幾度か撫で梳けば、象牙色の瞼がぴくりと動いた。
「ぁ……?」
「おはよう辰巳。朝だよ」
「あー……」
ぼんやりと天井を見上げたまま、こちらを見ようともしない辰巳の視界に、フレデリックは自ら身を乗り出した。
「起きて?」
「起きてんだろ」
「そのまま寝てしまいそうだけどね」
くすくすと笑いながら、フレデリックは辰巳の首の下へと腕を差し込むと無造作に抱き起こした。
「あンだよ、年寄りじゃあるまいし」
「キミが起きてくれないと、僕が困る」
「あぁん?」
「今日は和服に着替えるからね。そろそろ動かないと」
フレデリックの言葉に、辰巳の眉間には深い皺が刻まれた。忘れていた訳ではないが、乗り気である筈もない。
「風呂」
「貸切のお風呂が空いていたから予約しておいたよ」
「はぁん? たまには気が利くじゃねぇか」
「僕はいつでもキミの事を一番に考えてるのに」
些か拗ねた様子のフレデリックへと伸ばされた手は、金色の頭をくしゃりと撫でた。
「浴衣出せ」
一糸纏わぬ姿で寝ていた辰巳が短く言えば、フレデリックはさっそく浴衣を着せに掛かる。帯を締めたのちに、僅かに離れた場所からバランスを見るフレデリックの口から不満が零れ落ちた。
「寝る時に着て欲しかったのに……」
「どうせ脱がせんだろ」
「ああ、浴衣姿のキミはとてもセクシーだね」
「うるせぇよタコ」
うっとりと囁くフレデリックに身の危険を感じ取り、辰巳は思わず後退った。
「何も逃げなくても……」
「お前、鏡見てからモノ言えよ。物騒なツラしやがって」
「えぇ……」
項垂れるフレデリックの耳に、ドアの閉まる音が無情にも響く。当然、フレデリックはすぐさま辰巳の後を追った。
慌てて廊下に出たフレデリックは、だが唐突に伸ばされた腕に首を抱え込まれた。犯人が辰巳である事は気配で分かっている。そうでなければ、伸ばされた腕など圧し折るのは容易い。
「置いていくなんて酷いじゃないか」
「待っててやっただろぅが」
「逃げたくせに……」
「お前の好きなようにさせたら風呂に入りそびれるだろぅが」
渋い顔をしながらもちゃんと待っている辺りが辰巳の優しさと言えなくもないが、当然そんな事で満足するようなフレデリックではないのである。浴室に向かう間、辰巳が不満をひたすらに聞かされたことは言うまでもなかった。
貸切風呂は思いのほか広く、大柄なふたりが一緒に浸かってもゆとりがあった。檜の浴槽に腕を掛けて寛ぎきった辰巳の髪を、フレデリックが丁寧に洗う。
「サキョウが着選んでおいてくれると言っていたけれど、どんな着物だろうね」
「さきょう?」
「潤の兄君だよ。昨日紹介されたろう?」
「あー、そんな名前だったか」
「サキョウにウキョウなんて、洒落た名前だよね」
「そうか?」
他人どころか自身の名前にすら興味のなさそうな辰巳である。フレデリックの“洒落た”などという感性すら理解が出来ない。
「キミはもう少し人に興味を持ってもいいと思うんだけど」
「ああ? どうせお前だってたいした興味じゃねぇだろぅ」
「まあ、確かに……」
否定もできず、フレデリックは少々手荒く辰巳の髪を洗い流した。いつもより荒い手つきに視線だけを動かした辰巳がフレデリックを見遣る。
「京都といえば、人力車が有名だよね」
「……乗らねぇぞ」
「ええっ!?」
「あんな目立つもん誰が乗るか。馬鹿じゃねぇのか」
「せっかく着物でデートなのに!」
「だからだろぅが。着てやるだけ有り難く思えタコ」
そもそも着物を着たフランス人が目立たないはずがない。いくら観光地といえど、フレデリックの目立ちっぷりが異常である事は、辰巳には充分わかりきっていた。似合う似合わないなどという問題ではないのだ。
その上人力車で観光スポットを回るなど、死んでも御免被りたい辰巳である。
「そんなに乗りてぇなら真崎とでも乗ってこい」
「僕が他の男とデートしても良いっていうんだね」
「ただの観光だろぅが」
「僕はキミとデートがしたい!」
結局、本音を曝け出すフレデリックに辰巳は苦笑を漏らすしかなかった。こうなればフレデリックが引き下がる事など有り得ない。どれだけ辰巳が嫌がろうが、どれほど渋い顔をしようが、最終的にフレデリックの思い通りになる事は目に見えている。
「……気が向いたらな」
「僕の旦那様は世界一優しいから、僕を喜ばせてくれるに決まってる」
「言ってろ阿呆」
いい加減逆上せそうだと、浴槽から立ち上がった辰巳をフレデリックの視線が追う。
「先に部屋へ戻るかい?」
「いや、少し涼みてぇな」
「ふふっ。やっぱりキミは素敵な旦那様だね」
「勝手に言ってろ」
吐き捨てて浴室を出て行った辰巳の背中がドアの奥に消える。フレデリックは、自身の髪と躰を洗い終えると浴槽に見向きもせずに浴室を後にした。
辰巳の姿は脱衣場のすぐ横にある休憩室にあった。籐で編まれた椅子は見るからに涼しげで、曇りのないガラスの奥には小さな庭園が広がっている。
「お待たせ」
「別に待ってねぇよ」
「嘘吐き。照れなくても、キミが優しいのは知ってるよ」
フレデリックは辰巳の目の前にミネラルウォーターのボトルを差し出した。
「飯は」
「雪人が手配してくれたからね、ゆっくりできると思うよ」
「はぁん?」
真崎と設楽の付き合いがどれほどのものかは知らないが、フレデリックを含んだ幾人かの面子は『嫁会』なるふざけた繋がりを持っている。真崎が京都へと赴くために、雪人が手を貸したところで驚きはなかった。
辰巳とフレデリックは、休憩室を出たところでばったりと設楽と真崎の二人に出会した。大柄な三人が並べば些か狭く感じる廊下を食事処へと向かう。
「お風呂は如何でしたか、フレッド」
「うん。気持ち良かったよ。中庭もなかなかのものだね」
「それは何よりでしたね」
「今日は、また別のホテルへ移動するんだったよね」
「はい」
移動と聞いて、眉間に皺を寄せたのはもちろん辰巳である。旅程は事前に聞いているものの、面倒なものは面倒なのだ。
仲良く話しながら歩くフレデリックと真崎の後ろで、設楽は渋い顔をする辰巳に苦笑を漏らした。
「嫌なら断れば良かったのでは?」
「そんなもんであの我儘が納得する筈ねぇだろう」
「すっかり尻に敷かれてますね」
「お前はどうだよ」
「うちはそうでもないですね。真崎はまぁ……弁えてはいますから」
些か微妙な面持ちに気付かない辰巳ではなかった。すぐ隣に並ぶ男の顔を見上げる。
「何かあんな」
「ありませんよ」
「嘘吐いてんじゃねぇよ。お前今妙な顔しやがったろ」
「妙に勘が鋭いのは、叔父貴譲りですかね」
「ああ?」
「なんでもありません」
設楽の言う叔父貴とは、辰巳の父、匡成の事だ。周囲の人間からは、表情が乏しいと評されることの多い設楽だが、どうしてかこの親子は僅かな変化に気付く。
「ところで親父、メールはご覧になりましたか」
「あ?」
「一哉から連絡が来てました。岬の連中がシマ内をウロついてるとか」
「揉めてんのか」
「そこまでじゃないらしいですがね」
「だったら放っておけ。わざわざこっちからちょっかいかける必要もねぇだろ」
「伝えておきます」
辰巳や設楽の不在を狙って何かを仕掛けるとも思えなかった。引退したとはいえ、東京には匡成が残っている。何かあればどうにかするだろうと気楽に構える辰巳に、設楽は苦笑とともに頷いた。
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