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家に帰ると、リビングから笑い声がした。 バラエティの音も聞こえてくる。 案の定、父娘でテレビを観ていたらしい。 ほんの少しの憤りを感じるとともに、ほっとしている自分に驚く。 夫には、“夫”の心はなくても、“父親”の心は残っていることに。 「ただいま」 言いながらリビングの硝子戸をあけると、夫がソファから立ち上がった。 「おかえり」 夫は、目も合わせずに脇を通り過ぎると、寝室に向かって歩いていく。 もちろん喧嘩をしているわけではない。 怒っているわけでもない。 これは“義理立て”だ。浮気相手に対するーーー。 「ママ」 暗い思考に陥りそうだった陽子を、寸でのところで郁が引き留める。 「ちょっと、ここにきて?」 言いながら、先ほどまであんなに笑いながら観ていたバラエティを惜しげもなく消すと、ソファの隣の席をポンポンと叩いた。 先ほどまで夫が座っていた場所だ。 無意識に少しだけ尻をずらして座ると、郁はそれには気づかず、陽子を見上げた。 「酔ってる?」 夫にも郁にも、今日はイベントの打ち上げの飲み会だと伝えていた。嘘はついていない。 「酔ってないよ」 「よし。じゃあ聞いてほしい話があるんだ」 郁はソファの上に足を上げて、正座をした。 「何よ、改まって」 言うと、彼女は父親に似て大きな目でこちらを見上げた。 「私、松が岬市の高校に行きたい」 「松が岬?」 思わず片眉が上がる。 松が岬市と言えば、ここから車で1時間はかかる。冬場なんてもっとだ。しかもあんなに寒くて雪深くて、大変なところ。 その苦労と危険さは、痛いほどよく知っていた。 「どうしてあんなところに…」 言うと、彼女は間髪入れずにパンフレットを出してきた。 「東北藤高等学校!ここに、調理科があるんだ!」 調理科??? 今まで聞いたこともない単語に、思わず眉間に皺が寄る。 「なに、あなた、料理人にでもなりたいの?」 少しふざけて言ったつもりだったが、 「うん!そう!!和食料理人になりたい!」 大きな目が輝いている。 「ーーーそれっていつから?」 「去年の誕生日、作った肉じゃがをパパが褒めてくれてから!」 ーーーーー。 「ーーーそんなこと言ったって。どうやって通うの?バス?電車?」 「それは……」 「通学だけで大変すぎて、あなた……学びたくても十分に学べないわよ。それだったら、ここら辺の高校に入って、卒業後、栄養士の大学でも、料理の専門学校でも、進学すればいいじゃない」 「それじゃ、遅いの!」 「何が?」 「今すぐ、学びたいの!」 陽子は困惑しながら、唾を飛ばして熱弁する娘の顔を見た。 受験勉強に飽き飽きして出た、現実逃避の気まぐれかもしれない。 この年齢特有の“私は人とは違うんだ”とう思考に酔っている可能性もある。 母としてそれを確かめる材料が、まだない。 「だからね、もうパパとおじいちゃんおばあちゃんにはもう言ってあるんだけど……」 妙な前置きが入る。 パパはまだしも、“おじいちゃんとおばあちゃん”? 「私、松が岬のばあちゃん家から通いたい」 「ーーーー」 確かに、陽子の実家は松が岬市にある。70代の父も母も、病気一つせず、健康だ。 しかし――――。 「3年間、向こうで暮らすってこと?」 「うん、そう」 「おじいちゃんたちが賛成してるの?」 「うん!一年前から頑張って説得した。パパとママがいいって言うなら、いいって!」 郁の顔が緊張している。 「———パパは?」 一応聞いてみる。 だって、郁がいなくなるということは、この家に二人で残されるということだ。 「パパはいいって!賛成だって!私の料理、もっと食べたいって言ってくれた」 思わず頭を抱える。 「ね、ママ?」 そんな母親のリアクションを見て、郁は不安で必死で、それでも逃げずに泣かずに、まっすぐに陽子を見つめている。 ―――1年も前から。 ―――ならどうして言ってくれなかったの? その顔を見つめ返す。 『本当に欲しいものは、欲しいと言えないもんだよな』 つい先ほどまで、一緒にいたからだろうか。 昔に閉じ込めたはずの言葉が、声が、唐突に蘇る。 「ーーーちょっと。考えさせて」 言うと、郁は祈るような顔で、小さく、だがゆっくりと頷いた。 洗面所に向かう。 鏡の中の自分を見る。 いつもより、やけに濃い化粧が、いっそう陽子を老けさせている。 ーーー娘のために。 郁のために、夫を責めなかったのだ。 我慢して一緒に暮らしてきたのだ。 そしてきっとそれは、夫も同じだった。 郁がこの家からいなくなる。 それは同時に、陽子と夫が夫婦である必要がなくなるということだった。 郁は先ほど、「パパは賛成してくれた」といった。 つまりは――――。 きっと近いうちに、夫から別れを宣告される。 覚悟していたよりも、ずっと早く――――。
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