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「奈緒子さん、セニカさんの新しい電子血圧計のデモ機、KAMO医療機器さんも2、3個欲しいとおっしゃってて、回せる在庫あります?」
ある日、突然話をふってきた後輩を、奈緒子は思わず二度見した。
KAMO医療機器とは、奈緒子たちの会社の十倍規模の大きな会社なのだが、販売発注窓口の担当は、高岡という女性で、愛想の欠片もない。
同性同年代だということもあるのかもしれないが、奈緒子に対してはいつも喧嘩口調で、医療品、医薬品の卸会社としてはライバルに当たる他の社名をこれ見よがしに出してくるので、こちらとしてもあまり相手にはしないようにしてきたのだが。
電子血圧計のデモ機を欲しいなんて、どういう風の吹き回しだろう。
目の前の男を見上げる。
(そうか。こいつ狙いなのか)
「どうしましたか?奈緒子さん?」
時崎が苦笑いをする。
「デモ機は出せない感じですか?すぐ回答しないといけないので、もし難しければ―――」
「何とかするから、受注貰っていいよ」
「わかりました。ありがとうございます」
受話器を取った時崎がKAMO医療機器に電話を掛ける。電話口に出たらしい高岡と、楽しそうにやり取りを始める。
「はは、そんなこと言ってくれるの、高岡さんだけですよ」
笑っている。
(どんなこと言われてんだか)
どうしても女性が多い総務で、男は仕事的に不利だと思ってきたが、イケメンはその限りではないようだ。
奈緒子は電話が終わるのを待って、時崎に一枚の名刺を渡した。
「これ、血圧計の(株)タカサキの担当者。
今の担当者は斎藤さんって言うんだけど、前の担当者が会沢さんって男性で、今課長になってるの。
何かとこっちのほうが融通が利くから、何かお願いするときにはこちらを頼ったほうがいいよ」
それを渡そうとすると、時崎は笑顔でそれを押し返してきた。
「すみません、ありがたいのですが、この貴重な名刺は僕は貰えません」
「———え?」
「実は、今月で退社が決まってまして」
笑顔を崩さず男は奈緒子を見下ろした。
「奈緒子さんには大変お世話になりました」
指導係である自分に一言も相談せずに、もう退社が決まってる、だと?
奈緒子は眩暈を覚えた。
せっかく使える後輩が入ってきたと思ったのに。
部署移動ならまだ納得もできるが、退社とは。
思わず、デスクに両手を突いて、倒れそうな上半身を支えた。
「そうなんだ。それで、どこに行くの?」
「実はその、KAMO医療機器なんです」
声を潜めて時崎は言い放った。
「————あー、それで」
「はい、それで、です」
屈託のない笑顔で言う。
奈緒子は名刺をフォルダーにしまうと、正面に向き直って、キーボードを叩きだした。
「いいね、君たちは身軽で」
思わず嫌味が飛び出す。言ってもしょうがないことは言わないようにしているのだが。
「はは、若いんで」
確かに。28歳は若い。こと男に関しては、ものすごく若い。
付き合っている女性との長い人生を築く上で、収入的に条件の良い方に良い方にと、渡り鳥の如く、いろんな会社でいろんなノウハウを積んで、理想の住処を探し求めてもいい年代だ。
しかし―――。
「ほんと、若い」
奈緒子はキーボードに視線を戻した。
「どういう意味ですか?」
笑顔を曇らすことなく時崎が聞く。
「聞きたい?冥途の土産に」
「やだなぁ。怖いですよ」
ヘラヘラ笑っている男の顔を見ず、キーボードでは発注書に沿える表書きを打ち込みながら、口を回す。
「まだ何もモノにしていない状態で、次から次へ。
理不尽なことで折られたプライドの自己治癒力も身に着けず、自分が悪くないのに下げる頭の重さに耐えた経験もなく、上司に涙を見せたことも、後輩の肩を叩くこともなく、やりがいも責任も感じないで、ただ自由に飛び回る渡り鳥」
時崎の顔から笑顔が消える。
印刷ボタンを押すと、奈緒子は立ち上がった。
「私、そういう男、一番嫌いなの」
言いながら数歩の位置にある印刷機から、発注書と表書きを取ると、そのまま上に突っ込みファックスを流す。
振り向いたときには、隣の席は無人になっていた。
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