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「汗魔ダクダク王子、穴を出る」
汗っかきは寿司屋さんになれるか?
僕は汗っかきだ。特に手のひらにたくさん汗をかく。ちょっとでも暖かい季節になると、僕はいつも心もち手のひらをひろげるようにして過ごさなければならない。
そうしないと僕の手のひらは、最初は霧吹きで吹きつけたように、しまいにはそ
の小さな水滴が集まって、ポタポタしたたってくるほどになる。
霧吹きのときに気が付くことができれば、手のひらを広げることでやがて自然にかわいていく。でも、何かに集中しているときなんかはいつの間にか汗がポタポタ、ポタポタ・・・。
テストが返却されるとき、僕の答案はすぐわかる。
なぜなら、僕の答案だけがいつもシワシワで、先生が机の上にどんっと置いたとき、上と下を押しのけてその余計な存在感を示しているから。
クラスのみんなは新学期が始まってしばらくすると僕のこの病気(僕はこれはき
っと病気だと思っている。前に辞書で調べたけど、結局よくわからなかった・・・)に気
づく。
男の子たちは頭の線が何か抜けてるかなんかで、僕の鉛筆がヌルヌルしている
ことをいつも忘れて借りにくる。そして僕から借りるたびにギャーギャー騒ぐこと
になる。
その点、女の子たちはエラい。
一人の間違いはあっという間に広がって、二人目はない。
そして毎年のことなんだけど、学年が始まって半年もすると誰も僕の物を借りに来ることはなくなり、そのうち、僕の触る物は誰も触らなくなる。
僕は「バイキン」と名付けられ、誰からも話しかけられることがなくなり、晴れて誰からも見えない透明な存在となるのだ。
今僕は、この土管の中で将来のことを考えている。
―汗っかきは寿司屋さんになれるのか?―
僕のような汗っかきが世界で僕一人だけではなかろう。
汗腺の数は育った環境の温度による、そうだ。ということは赤道近くの人類はすべからく僕のように汗っかきのはずだ。
ただ、汗腺が手のひらに集中している人間の確率はというと、四十億×三分の一×三分の一=4,44444億人。
そう、だいたい四億の人間が僕のような手汗人間で、その手汗人間がお寿司を握ったら水っぽくポロポロ崩れるようなお寿司しか握れないことになる。
そんなお寿司、いったい誰が食べるのか?
だから僕は寿司屋さんにはなれない。
では僕は何になれるのか?
お医者さんはどうだろう?
手術のときは手袋をしているからいい。でも、患者さんはきっと僕に触られるのを嫌
がるだろう。バイキンのお医者さんは嫌われる。
パイロット?
きっとみんな僕の後の操縦桿を握るのを嫌がるだろう。
サッカー選手?
だめだ。
サッカー選手の人たちはタックルして相手を倒してしまうと、ごめんねの合図に手を差し出して相手が立ち上がることを助けてあげている。
差し出された手を、気持ち悪いから、という理由で断るのは子どもだ。
大人は断らない。
たぶん、断れない。
相手の手が手汗でヌルヌルする手でも、差し出された手には、笑顔で応えなくてはいけない。
これは一番嫌だ。
お寿司屋さんにも、お医者さんにも、パイロットにも、サッカー選手にも、僕はなれない。
なることができない、と分かったらなんだかスッキリしたので僕は土管を出ることにし
た。
外はもう夕方で、僕の黒いランドセルが赤い原っぱに四角く開いた穴の様にポツ
ンとあった。
※
この土管を見つけたのは二年前の三年生のときだった。原っぱの土手に埋められ
ていたんだけど、長い草が入口を隠していたからそれまで気付かなかったんだ。
それは夏の十二時だった。
光化学スモッグ警報が出ているせいで、いつもはマラソンしている人や、散歩して
いる人で結構混み合っているこの河原には誰もいなかった。
たまたま土管の入り口を見つけてしまった僕は、(中を、見てみよう)とふと思った。
思ったら、手の平だけじゃなくて、全身から汗が出てきた。
近づいた。中は真っ暗で、なんにも見えない。
ギラギラ光る目をした化け物が居てもおかしくなかった。
深呼吸を何回もして、僕はようやく土管の入口の草に手をかけた。と、そのとき、河原の上をはしっている陸橋を電車が、ゴオオオオッ!と通り抜けていった。
心臓が止まるかと、本当に思った。
中はけっこう広くて、僕があぐらをかいて座ってもまだ頭の上には三十センチく
らいの余裕があった。
奥はコンクリートでフタがされていて、それ以上は行けないようになっている。
長い髪の毛のように入口をふさいでいる草のあいだから外の光が入ってくるから中はけっこう明るい。
しばらくその暗がりに座っていると、僕は何からも守られているような、ゆったりとした気持ちになれた。
さっき入ってくる時、電車のせいでもらしたおしっこもだんだんかわいてきていた。
そのときから僕はほとんど毎日ここに来ている。
※
今日も僕は土管の中から外を眺めていた。眺めてはいたけど、左目がびっくりするくらいふくれ上がってしまっていたので、ほとんど右目だけで垂れ草の間から外が暮れていくのを見ていた。
心臓の音が耳でするたんびに体中にできた傷がジリジリ痛かった・・・
遠藤というヤツは手のほどこしようもないお調子者だけど、気が弱くて、二年生まで
は黒板の問題が解けないといっては涙を流していたようなヤツだ。
女の子の前でチンチンを振り回すことが彼の唯一の生きがいで、彼の話すことと
いったらテレビのタレントの話しかない(まあ、ほとんどの連中がそうなんだけど)。
今日も遠藤はテレビタレントの真似をしてクネクネ踊って、あやまって僕が読んでいた『アンナ・カレーニナ』を床に落としてしまった。
それだけなら僕が本を拾い上げて終わり、となったんだけど、このピエロは僕より先
に本を取り上げると、「アンナ・カレーニナ!」と叫びながら、(この猿がカタカナ
を読めた、ということも驚きだったが)自分のチンチンを本の間にはさんだ。
周りにいた猿一同もどっと笑い、キーキーと大騒ぎになった。
僕はあまりにアホらしくなって、『アンナ・カレーニナ』にはさまっている彼のイチモツを『アンナ』ごと両手で思いっきり挟み込んだ。
遠藤はギャーギャー騒ぎだし、周りの連中も「ひどい」だの「空気よめよ」だのとうる
さい。
僕はもう何もかも面倒くさくなったので教室を出ていこうとした。
その僕の前に立ったのが清水だった(この清水という男もまた遠藤と同じ程度の知能の持ち主なんだが、さらに悪いことには彼は体も大きく、喧嘩も一番強かった)。
「お前、ふざけんなよ!バイキン!」
清水の言葉と彼の拳が同時に僕を襲った。
バシッと僕の頬が鳴って、目の前がチカチカした。
セマッテクルコブシを
スウェーバックデカワシ、
アイテノケンノスピードを
ハルカニウワマワルスピードで
シュトウヲクリダシタ。
シュット、
クウキガコゲツクヨウナ
ソノシュトウヲ清水の
クビスジニクイコマセ・・・ることなんて当然ムリだった。
僕が後ろによろけ、机に手をついたときには清水が「バズーカー!」といいながら
出してきた蹴りがお腹に当たって僕は床に倒れた。
床に倒れてから僕は、清水の足になんとかしがみついて、彼を倒すことに成功し
た。
そして・・・
そして、そこまで。
起き上がってきた清水にあとはいいように殴られて、それは先生が教室に入ってく
るまで続いた。みんなの前でなぐられたことなんてどうでもよかった。
僕がうれしかったのは起き上がった清水の目にあった、僕への憎しみだった。
僕は本当に殺される、と思った。
だけどまた同時に、清水の目から出ていた光線は、透明だった僕の存在を照らし出してくれてもいた。
結局奴らは僕を透明にすることはできなかったのだ。
僕の勝ちだった。
薄暗いこの土管の中であの時の清水の目を思うと、僕はまだ心臓がドキドキする
し、気持ちの悪い汗がまた手のひらに浮かんできた。
汗をかわかすいつもの方法(手のひらをヒラヒラさせる方法。これを学校ではやらないように僕は無駄な気を使っている)で乾かしながら、僕はなんだか笑い出したくなった。
結局僕は勝ったのだ。
どんなに嫌がっても、どんなに僕の存在を否定しようとしても、結局奴らは生きている僕を否定できなかったのだ。無視できなかったのだ。
そのとき僕は、初めてなんにでもなれるような気がした。
寿司屋でも、医者でも、サッカー選手でも、なんでも。
※
何ヶ月か経った雪の降るある日、僕の土管がなくなっていた。
何週間か前から土管のある場所よりもかなり遠いところで始まっていた造成工
事に僕は気づいていたけど、その遠さにすっかり安心し、油断していた。
ブルドーザーや工事のおじさんたちの群れは草地をあっという間にコンクリートで埋めていき、あとには味気ないおんなじような景色が作り出されていた。
僕の土管は永遠に消えてしまった。
ゴオオッと鉄橋の上を通っていく電車の音が、まるで初めて聞いた時のように僕
の体を震わせた。
草の上のランドセルに雪が降りつもってきていた。
<汗魔ダクダク王子、穴を出る 了>
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