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 ポールは狐につままれたような顔をしている。 「いいか、クローリィー博士が発表した論文は、『ハイゼンベルグの不確定性原理のマクロ境域における応用について』っていうんだ」  ポールの当惑はまだ晴れない。 「不確定性原理は、量子力学の有名な原理だ。いわゆる物の運動は、物理学では『位置』と『運動量』のふたつで記述される。位置はわかるよな? その物がどこにあるかだ。運動量ってのは、その物の質量と速度をかけたものだ。古典的な力学じゃ、このふたつがわかれば、ビリヤードの球の動きから天体の運行まで、すべての運動が科学的に記述できる。ところが」  私は新聞記事をポールにも見えるように掲げた。 「『ハイゼンベルグの不確定性原理』は、ミクロの素粒子レベルになると、位置と運動量が同時には確定できない、という原理なんだ。素粒子の位置がわかっている場合は、それがどんな運動量で動いているかはわからない。逆に運動量がわかる場合は、その位置がわからなくなる。どうしてそうなるかまでは俺も知らんが、要はそういうことだ」  ポールの顔から少しずつ当惑の雲が晴れていく。「そうか、それを今回の尾行に当てはめると……」 「そうだ。博士のクルマがローヴァーだってことはわかってる。つまり大体の質量はわかってるから、それを定数とすると、変数は速度だ。つまりこの場合、運動量は速度と置き換えていい。そこで定点尾行の時には、分岐点で待つ訳だから、そこに向かっていることはわかっていた。つまり、位置はわかってたんだ。だが、いつ、分岐点を通過したかはわからなかった。それは、速度がわからなかったからだ!」 「でも……博士は大体四十マイルくらいで走ってましたが」 「それは最初の頃だろう? 四つ目の分岐点までの話だ。その後、急に加速した可能性もあるし、減速した可能性もある。だが、肝心なのは定点尾行の方法では、分岐点から分岐点の間、尾行対象がどんな風に移動したかはわからないって点だよ」 「でも、見ていれば、いつ通ったかわかるはずです」 「そう、マクロの世界ではな。ところが、ミクロの世界では、位置がわかれば速度はわからない」 「いや、しかし……」 「まあ、待て、先にもうひとつの方だ。直接尾行に切り替えてからはどうなった? アプリが死んで、位置がわからなくなっただろ? しかしクルマは見えている。したがって速度はわかっている。な?」 「確かに……やはり時速四十マイルくらいをキープしてましたね」 「そういうことだ。不確定性原理そのままじゃないか。位置がわかっている定点尾行では速度がわからなかった。速度のわかっている直接尾行では位置がわからなかった」 「しかし、それは素粒子の話でしょ? クルマは素粒子じゃない」 「そこで、博士の研究のタイトルさ」私はもう一度新聞を掲げた。「見ろ、『ハイゼンベルグの不確定性原理のマクロ境域における応用について』だ。マクロ領域。それはまさに、俺たちがいま暮らしている、このサイズの世界だ。素粒子のミクロ世界の原理を、博士は何らかの方法でこの世界に適用する装置を開発し、五番目の分岐点の手前でそいつのスイッチを入れやがったんだ!」
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