幼年期のおしまい

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「あっ、見つけた」ヒロシくんは、小さく声を上げて、それをつまみあげました。薄い茶色で触ると砕けてしまいそうな、セミの抜け殻。 少し透けていて、割れた背中からは、内側がみえています。 神社の木立の中、うるさいぐらいセミの声が降り注いでいました。 夏の木漏れ日が、くっきりと地面にシルエットを作っています。 「暑いなぁ」ヒロシくんもじっとりと汗をかいて、お母さんが持たせてくれた水筒から、麦茶を飲もうとして、その前に、抜け殻をビニール袋の中にいれます。それは、これまで集めていた抜け殻の上にカサッと音を立て落ちました。 「ヒロシくーん」境内の方から呼ぶ声。 入学式から1ヶ月ぐらいしてから、転校してきたリカちゃんでした。 引っ込み思案のヒロシくんでしたが、席がとなりになったリカちゃんは、そんな様子にお構いなしに話しかけてきて、いつの間にか、ヒロシくんもリカちゃんとはよく話をするようになっていました。 「いっしょに遊ぼう」ヒロシくんが近づいていくと、リカちゃんは言いました。見ると、クラスメイトが何人かいます。 「ドロケイ、やらないか」声をかけてきたのは、たぶん、ショウくんという名前の男の子。リカちゃんのニコニコ顔が目に入り、ヒロシくんは、思わず頷いてしまいました。 「わー、捕まった!」 「はやく、はやく助けて」 「しまったぁ」 ジリジリと日差しが痛い中、みんなの声が境内に響きます。 ヒロシくんも走ります。でも、みんなの中で一番小さくて、走るのが遅いので、泥棒になるとすぐに近まってしまうし、警官になったら、いつも振り切られてしまいます。 「ヒロシ、見張り番をして」、ヒロシくんは、警官の組になった時に誰かに言われて、牢屋になっている神社の基壇の前に立っていました。 「あー、あー、つかまっちゃった」リカちゃんが、大柄な女の子に連れられてやってきます。 「ヒロシくん、さっきまで何をしていたの」ショートカットの首筋も汗でびっしょりです。緑色のワンピースも背中がぐっしょりと濡れています。 「セミの抜け殻を採ってた」 「抜け殻?、見たことない。後で見せてね」 「うん」ちょっとうれしくなって、ヒロシくんは大きな声で返事しました。 「夏休み、もうすぐ終わっちゃうね」リカちゃんは空を見上げながらいいました。 「そうだねぇ」濃い青色の空、小さな白いモクモクとした雲が浮かんでいます。リカちゃんの顔を横目で見ると、なんだがとても寂しそうです。 「でも学校が始まるとみんなに会えるから」ヒロシくんは思わず、慰めるようにいいました。 「うん、そうだね」リカちゃんはヒロシくんの方を見ていいました。ちょっと何か言いたそうです。突然、横から男の子が走り込んできて、 「タッチ!」とリカちゃんの手にタッチして、駆け抜けていきました。 「やったー」リカちゃんが走り出しました。 「しまった」ヒロシくんはあわてて、リカちゃんの後を追いかけます。 リカちゃんは日の当たる境内から、林の方に逃げていきます。 ヒロシくんも必死に走って、頭がクラクラしてきました。 あと少しで背中にては届きそうになった時、リカちゃんが急に走る方向を変えます。そのとき、ヒロシくんには、リカちゃんが少し笑って、ヒロシくんの方に手を差し出したように見えました。ヒロシくんは思わずその手首を掴んでいました。 バタン。 そんな音がしたような転び方でした。 リカちゃんがヒロシくんの前でうつ伏せになっています。 「えーん」大きな泣き声が響きます。 「どうした」「どうしたの」クラスメイトが集まってきました。 「あの、あの」ヒロシくんは上手く説明できません。 「リカちゃん、大丈夫?」声をかけても、リカちゃんはうつ伏せのまま、泣き止みません。気まずい雰囲気が流れてきて、みんなは黙り込んでしまいます。 しばらくは、そのまま待っていましたが、やがてお互い顔を見合わせて、最後はヒロシくんの方の見ると、 「オレ、しらないよ、帰らないと」 「ワタシも」と一人また一人と、帰っていってしまいました。 気が付くと、ヒロシくん一人です。 リカちゃんは、まだ泣いています。 ヒロシくんは心細くなって、うつぶせのリカちゃんに話しかけました。 「リカちゃん、みんな帰っちゃったよ」 リカちゃんが少し動きます。 身体を起こそうしているのかと少し背中を丸めました。 転んだときにどこかに引っ掛けたのか、ワンピースが少し破れています。 「お水、ちょうだい」リカちゃんが小さな声でいいました。 「ちょっと、待ってて」ヒロシくんは、お社の影になる境内の反対側に置いてある水筒を取りに駆け出していきます。 水筒はドロケイを始める前においていた同じところにありました。 その横にはセミの抜け殻を入れておいたビニール袋も。 ただ、誰がが踏んでしまったのか、抜け殻は粉々に砕けています。 「リカちゃんに見せてあげられないなぁ」ヒロシくんは残念そうにつぶやきました。 「でも、また見つければいいか」水筒を肩にかけて、駆け出します。 戻ってくると、リカちゃんは、さっきと同じように背中を丸めています。 「麦茶をもってきたよ、水じゃないけど大丈夫だよね」とヒロシくんは声をかけました。 返事はありません。 ヒロシくんは、水筒のふたに麦茶を入れてリカちゃんに渡そうとしました。 でも、様子が変です。リカちゃんは固まったように動きませんし、腕や髪の毛、そしてワンピースまでつやつやとしているのです。 そう、まるでガラスのように。 ワンピースの背中の裂け目。ヒロシくんは、目を疑いました。見えるはずのリカちゃんの背中はそこにはありませんでした。 「リカちゃん」ヒロシくんは小さく叫んで、リカちゃんのつやつやの腕に触れます。 手に鋭い衝撃が走り、ヒロシくんは思わず目を閉じました。 ピシッ。という音が聞こえたような気がします。 目を開けると、リカちゃんの姿はなく、手の中にサラサラな細かな砂のようなものが残っていました。 「リカちゃん」ヒロシくんは手のひらを広げ、砂のようなものを見つめました。 パサッ、パサッと柔らかな羽ばたきのような音が聞こえ、空が一瞬暗くなります。 その後、少し遅れて優しい風が吹いてきて、手のひらの上のサラサラを吹き飛ばしていったのでした。 セミの声が、急に、うるさいぐらい大きくなります。 ヒロシくんは、しばらく一人で立ちすくんでいましたが、突然、大声を上げて走り出していきました。 背中にむず痒さを感じて。 あとは、夏の日差しとセミの声だけが、いつまでも降り注いでいるのでした。
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