母の故郷にはネコがいる

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 島に着いたらすぐに拾えばいいと思っていたタクシーは、一台も走っていなかった。  喉が渇いたからコンビニに行こうとも思っていたのに、見渡してみてもそれっぽいものはない。仕方なく自動販売機で飲み物を買って流しのタクシーを待ってみたけれど、タクシーどころか車が通ることもない。  バスや電車がないということは知っていたが、タクシーが走っていないとは思わなかった。交通が不便と聞いたときにはならタクシー代がかなりいるだろうからお金をたくさん持っていこうと考えたのだけれど、それは見当違いだったらしい。 「嘘でしょ、勘弁してよ……」  私の独り言には誰も返事をしてくれなかった。  そもそも、船着き場には誰もいない。簡易なプレハブ小屋の中にいる職員と思われる人は、帽子で顔を隠して眠っているようだ。一日に三本の船を見送るだけの仕事なのだろう。大半を寝て過ごすというのは、はたして充実しているのだろうか。 「はあ、さいっあく」  私が島についてしばらく経ったけれど、人は誰も歩いていない。日傘の作る影に身を潜めても、地面に反射した日光が容赦なく私の肌を刺す。動かずにじっとしているだけなのに、額から汗が流れ落ちた。    いつまでもこうしているわけにはいかない。私が座っていても歩いていても時間は流れるし日が暮れる。 「歩くか……」  発し慣れた自分の声なのに、太陽からの死刑宣告に聞こえた。  ペットボトルのお茶を飲み干して新しいお茶を買う。約三百円の損失。地元なら電車に乗って結構な距離を進むことができる値段だ。立ち上がってキャリーバッグを引くと、あまり綺麗ではない道路を拒否するようにキャスターが跳ねた。  見慣れない景色が新鮮に映るのは最初だけで、五分も歩けば道沿いの海が憎らしくなってくる。運動は体育の授業でやる程度、部活にも入っていない並以下の体力を持った私では炎天下の中を歩くのは苦行に等しい。口から自然と愚痴が漏れる。  船着き場からここまで、車は一台も通っていない。母は本当にこんな島に住んでいたのだろうか。ブランド物を好み、頭が良く、女として生きていた母に島出身というのはどうも似合わない気がした。赤子の頃に雑居ビルの前に捨てられていたのを派手で物好きな男に拾われたと言われた方がまだ納得するかも知れない。 「あら? 珍しいわねえ、外の人?」 「え……?」  突然声を掛けられて立ち止まる。暑さのせいか、波の音のせいか、声の出所がわからずに戸惑った。 「……っ」  ぼんやりとしている私を追い抜いて目の前に立ったのは、涼しい顔をした女の人だった。驚いて思わず呼吸が止まる。彼女が立った場所が一つの絵になったような錯覚を覚えるほど、美しい人だ。都会にだって、彼女に匹敵する人はいないかもしれない。  そして何より、彼女は母によく似ていた。 「やだ、すごく暑そうじゃない」 「暑く、ないんですか?」  どなたですか、この島の人ですか、民宿まではまだ遠いですか、色々言いたいことがあったのに、口から出たのはそんなまぬけな質問だった。白すぎる肌に、少し癖のある黒髪がよく映えている。肩で切りそろえられた髪は柔らかそうで猫の毛のようだと思った。猫のような彼女は涼しい顔をして私に、暑そうだなんて言うのだ。 「さあ、どうでしょう? 暑くないと思う?」 「暑くなかったら宇宙人ですよ」 「宇宙人? それ、おもしろいわね」  なにもおもしろくない。こんな暑さの中立ち話だなんてどうかしている。少しハスキーな声で笑う彼女を無視して歩き出すと、当たり前のように横に着いてきた。 「あなた、お名前は?」 「浅田澄香です」 「へえ、スミちゃん。あたしはキョウコ」  キョウコさんはなにが楽しいのか一人でニコニコしながら言葉を続ける。溶けるような暑さなんて意に介していないらしい。 「ねえねえ、どこに行くの?」 「宿泊先に」 「親戚のおうち?」 「民宿です」 「へえ、じゃあコンニチ荘だ」 「え、知ってるんですか?」  私がキョウコさんの方を見ると、もちろんと言ってから赤い唇が弧を描いた。 「あと一時間は歩くかな」 「え……」  続けられた絶望の言葉に思わず立ち止まる。  最悪だ。帰りたい。  でも、ここから船着き場までも遠い。船だって全然でていないから待たないといけない。その間に何本お茶を買うことになるのだろう。自宅から繁華街まで出て、そこからさらに先まで遊びに行けるほどのお金をお茶に費やすことになるかも知れない。 「山の上だからねえ、ちょっと立地が悪いのよ。あの家。この島に立地のいい場所なんてなかなかないけど」 「そんな……」 「わ、悲しそうな顔。ねえ、提案なんだけど」 「提案?」 「別の所に泊まるのはどうかしら?」 「で、でも民宿はそこしか……」  調べた限り一件しかなかった。一件見つけられただけでも奇跡だと思っていた。地元民しか知らない民宿が他にあるのだろうか。 「それがあるのよねえ」  彼女は私のキャリーバッグを奪うように持つと、着いてきてと言って歩き出した。 「え、あのっ、荷物!」 「大事なお客様だし、あたしが持つわよう」 「お客様……?」 「そ、おいでませ我が家へ。そこなら五分もかからないわ」  海から遠ざかって、細い路地に入っていく。ガタガタとはねながら進むキャリーバッグを目で追って、ゆるやかな坂道をのぼる。  相変わらず涼しげなキョウコさんを斜め後ろから見ていると、母に手を引かれて公園から帰った道を思い出す。年齢よりもずいぶん下に見られることの多かった母はやはりキョウコさんに似ている。髪の長さのせいかもしれないし、赤い唇のせいかもしれない、立ち振る舞いや言葉の使い方かもしれない。どこが似ているのか明確にはわからないけれど、キョウコさんを見ていると母の影がチラつく。 「もうすぐよ。コンニチ荘に連絡しなくちゃいけないわねえ」  キョウコさんの言葉でハッと現実に戻る。  民宿のキャンセル料って当日だと全額なのかな、とか、変なところに連れて行かれたらどうしよう、とか。不安な思考がぐるぐると渦を巻いた。  やはり遠くても民宿に行くべきだろう、予約した者の責任として。そう考えて口を開こうとしたとき、タイミングをはかったようにキョウコさんが立ち止まった。 「さ、着いたわよ」  キョウコさんは大きな白い門に手をかけながらそう言った。 「ここが……家……?」 「そう、ちょっと手狭だけど」 「手狭っ? 豪邸ですよ!」  白い門の奥にはきれいに手入れされた庭があって、そこからまっすぐと家までの道が続いていた。門と同じく真っ白な壁に、赤い屋根。子供のころ遊んだドールハウスがそのまま現実に出てきたみたいな見た目だ。 「前はここに民宿があったの。それが移動しちゃってねえ」  私を手招きして、キョウコさんが家までの道を進む。見たことのない花の間を通って家に着くと、彼女は話を続けながらドアを開いた。 「民宿にはあたしから連絡しとくわよ、キャンセル代もいらないし。あ、ちょっと玄関汚いけど許してね」 「え、キャンセル代いらないって……」 「実家なのよね、コンニチ荘。ほらあたしの名前、キョウコっていうじゃない?」 「そうだったんですね。あの、ここの宿泊代はいくらくらいですか?」  私の言葉を聞いたキョウコさんが、キャリーバッグのキャスターを拭く手を止めて目を丸くした。 「やっだ、お金払ってくれるつもりだったの? いらないわよう、そんなの」 「え、ええっ、そういうわけには……」 「あのねえ、あたしがお金に困ってるように見える?」  そう言われて思わず玄関を見まわした。私の家のお風呂場よりも広そうな玄関には絵や高そうな壺が飾ってあり、複数の靴が並べられている。そのどれもがきらびやかで、私の持っているものよりも良い品であることがうかがえた。 「見えないです、けど……」  それでも、お金を払わずに泊めてもらうというのは少し抵抗がある。親しい間柄ならまだしも、キョウコさんは今日初めてあった人だ。 「スミちゃんは真面目なのねえ……あ、そうだ。それなら宿泊費代わりに一つ頼まれてちょうだい」 「私にできることなら」 「大丈夫よう。スミちゃんにしかできないことだわ」  先に内容を聞かなかったのは私の落ち度だ。   二つ返事で頷いた私が案内されたのは、大量のガラクタが放置された部屋だった。ガラクタというのは私の主観で、キョウコさんに言わせてみれば宝物なのだけれど。 「さあ、服を脱いでちょうだい」  私にそう告げた時のキョウコさんのうっとりした表情は、母が私を褒めるときによく似ていた。
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