母の故郷にはネコがいる

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 誰もいないと思っていた島だけれど、夕方になると人が活動し始めるらしい。  砂浜に行きたいという私のわがままを聞いたキョウコさんが、人に会いたくないのよねとつばの広い帽子を深くかぶった。 「あれま、画家さんじゃないの」  家を出て少し歩くと、すぐにおばさんが話しかけてきた。よく焼けた小麦色の肌が健康的で、島の人と言われてすぐに納得する容姿だ。画家さん、というのはどうやらキョウコさんのことらしい。 「はあい、吉田のおばちゃん」  声をかけられたキョウコさんは少し顔を引きつらせてひらひらと手を振る。  吉田さんの視線はすぐに私に移って、上から下まで何度も舐めるように往復した。 「その子はどこの子? あんた島の外からガールフレンドを連れてきたのかい? しかもこんな若い子……ん? あんたもしかして……」 「んもう、ガールフレンドってわかってるなら邪魔しないでちょうだいよう。あたしたちデートだから、じゃあね」  キョウコさんが私の手を引いて歩き出す。会釈して通り過ぎると、吉田さんは目を細めてじとっと私をにらんでいた。 「あの、今の人……」 「嫌な思いをさせちゃったかしら?」 「え、いえ、私は大丈夫です」 「ごめんなさいねえ、この島って受け入れられないものへの風当たりが強くて。なんていうか、過干渉なのよねえ。何でも知りたがるの」 「受け入れられないものって……」  キョウコさんのことですか、と言葉を続けることはできなかった。にっこり笑っているはずの横顔は、少しこわばっているように見える。  もう近くに吉田さんはいなくて、私の手を引く理由もないはずなのにキョウコさんは恋人にするみたいに指を絡めて手をつなぎ直した。 「夕方になると少し涼しいでしょう?」 「潮風が気持ちいいです」 「髪がギシギシになるわよ」 「えっ」 「大丈夫、あたしが洗ってあげるから」  そういわれて、キョウコさんとのお風呂を想像した。同性の体はよく知っているはずなのに、キョウコさんのことを考えると顔が火照る。かっこいいと言われているクラスの男子にも、こんな風に感じたことはない。 「ねえ、スミちゃんのお父さんってどんな人?」 「父ですか? さあ、あまり話はしないので……眼鏡をかけています」 「目が悪いんだ」  繋いでないほうの手で丸を作って目に当てるキョウコさんは先ほどよりも穏やかな表情をしている。 「それで、えっと、真面目な感じです。仕事熱心で、家のことには無関心で」  父のことを思い出して情報を出そうとするが、それ以上は出てこなかった。 「へえ、そうなの。結花さんってそういう人が好みだったのかしら」 「母の好み………?」 「さ、ついたわよ。この砂浜からの夕日は格別なの」  明るい声でそう言ったキョウコさんは、話を不自然に遮った気がした。  太陽はまだ沈んでいなくて、夕日というには少し高い位置にある。 「そのうち沈むわよう、ちょっと遊びましょう」  私の考えを読んだように、キョウコさんが砂浜を歩き始める。柔らかい砂に靴が沈んでふくらはぎに力が入った。波打ち際の水は透明で、押し寄せるたびに白い泡が立つ。テレビで見るようなコバルトブルーの海ではないけれど、私には十分すぎるくらい綺麗だ。  なにより、楽しそうに水を蹴るキョウコさんが深い水の色にとても映えていた。  指先で水に触れたり、貝殻を拾ったり、なんでもない時間を過ごしていると本当にこの旅が逃避行に思えてくる。  一週間後には船に乗ってこの海の先に帰らなくてはならない。何気ない日々を過ごして、父とはあまり話さず、進路に悩む、そういう現実がこの水平線の彼方に転がっている。その現実から少しでも離れるように、この島に逃げ込んできたのかもしれない。 「難しい顔してるわねえ、スミちゃん」 「この旅って本当に逃避行なのかもと思って」 「学校、うまくいってないの?」 「そんなことないです。普通です。でも、普通過ぎて」 「刺激が欲しくなっちゃった?」  キョウコさんが私の耳に唇を寄せる。その言葉で先ほどのキスを思い出して心臓が跳ねた。 「あ、日が沈むわ!」 「え?」  キョウコさんの指さした方向を見ると、空が赤く染まっていた。少し前まで上のほうにあった太陽は、今まさに海に身を投げようとしている。 「世界が終わっちゃうみたいでしょ」 「綺麗ですけど、少し怖いです」 「昔ね、この夕日を見るたびに終末が来るわなんて楽しそうに笑っていた人がいたのよ。物騒だけど、あたし納得しちゃった」 「終末……」 「ええ、ここは終末みたいな場所なの」  そう言って夕日を眺めるキョウコさんがとても幼く見える。何かをいつくしむような、甘えるような、それでいて寂しそうな顔だ。 「キョウコさんって、何歳なんですか?」 「今聞くの、それ? そうねえ。まだ三十代にはなっていないわ、ってだけ教えてあげる」 「お姉さんですね」 「そうよう。あたしは何歳になってもスミちゃんのお姉さん」  キョウコさんはそれきり黙って夕日が沈むまで空を見つめていた。  結局、帰りましょうかと言って彼女が歩き出したのは、あたりがずいぶん暗くなってからだ。都会では考えられない暗さの道を歩いて、彼女の家に帰る。  手料理を食べて通された客間で眠りにつくと、夢に母が出てきた。何をしに来たのと少し困った顔をしている母だ。夢の中の母は、浜辺で見たキョウコさんによく似ていた。  
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