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まだ自分のことを「ぼく」と呼んでいた頃の話だ。
そのころの「ぼく」には、晴れた日の長い休み時間に屋上へ行く習性があった。屋上には他に何人かの生徒がいて、そのうちのひとりに、「ぼく」の友達がいた。
「よお」
彼はいつも決まって「ぼく」に語りかけた。
「よお」
「ぼく」はいつも振り返らずに、そう返した。
屋上の高い柵から、校下の町並みと、その先にある海を見下ろすのが好きだった。この高い高い柵を越えれば自由になれるのだと幻想をいだき、叶わないもどかしさが金網に指を食い込ませた。
彼は「ぼく」のとなりで、柵の金網に背中をもたれかけた。
金属が軋んだときの、乾いた音が小さく鳴る。
「新川さんと別れたんだって?」
「ぼく」は彼を見ぬまま、そう言った。
「あー、またその話?」
「はじめてするけど」
「朝から何回聞かれたと思ってんの?」
「ぼくの知ったことじゃない」
ふ、と鼻から抜ける音で、彼が意地悪げに笑ったのには察しがついた。
「ぼく」の通っていた高校は、このあたりで一番高い建物だった。海からの風が容赦なく「ぼく」たちに吹きついた。
その風が、「ぼく」の短い髪も、スカートも、揺らしていた。
「パンツ見えるぞ」
「スパッツ履いてるから」
「スカート押さえるとかさ」
「めんどくさい」
「ぼく」は身を翻し、彼と同じ方向を向いた。
「仕方ないんじゃない?」
「うん?」
「新川さんと別れたっていうの」
「それって、別れたことが? それとも、それを聞かれること?」
「どっちも」
「別れたことも?」
「そうだよ」
きみが「普通」の女の子と、長く付き合えないなんて、見ていればわかる。だって、3ヶ月前に告白されたと報告してくれてからも、休み時間にはずっと屋上にいたじゃないか。
「ぼく」は、思ったことをなにひとつ声に出さず、彼の反応を待っていた。
「やっぱ、そうなのかな」
「そうだよ」
「体の相性はよかったと思うんだけどなー」
「それでふられるって、よっぽどじゃん」
「だよなぁ。武本といっかい寝たのがばれちゃって」
「武本くんて、きみと同じ部活の?」
「んーそう。ずっと好きだったから、いっかいだけって」
「彼女いたのに、よくやるね」
「それで、諦めると思ったんだよ。男とやるの久々だったけど、やっぱあんまりいいもんじゃねーや」
まあ、大体それで別れ話の経緯が読めたので、こちらからそれ以上突っ込むのはやめることにした。
「どんな大人になるんだろ」
「お前が?」
「きみだよ」
「そりゃ、就職して結婚して子供ができりゃあいちばんいいよなぁ。一戸建てに車なんか買ったりしちゃってさ」
彼はへらへらと笑い、「ぼく」はそれに呆れた。
「それで、きみは家庭第一のアットホームパパにるわけ?」
「さあ? でも、それが「普通」なんだろ?」
「たぶんね。ぼくにはわかんない感覚だけど」
「おれもだよ」
海からの風が、ずっとふたりの間に吹いている。
その頃の「ぼく」たちは、群からはぐれたもの同士だった。群の掟が窮屈で、けれどひとりでいることが怖かった。
そして彼は、群への帰還を強く望むひとだった。
「どんな大人になるんだろうなぁ」
こんどは彼がそう言った。
「わかんない」
彼の表情を窺い見る。その顔は、こちらを向き、微笑んでいた。
「おまえもいつか、わたし、って言うようになるのかな」
「ぼく」は下唇を軽く噛み、唾を飲み込んだ。
「ないよ。そんなこと」
「そうかぁ?」
「ない」
「そっか」
未来のことなんて誰にもわからないよな、と彼は言った。
予鈴がなって、話はそこでおしまいになった。
結婚したらその相手と子供をいちばん思え、なんてくそくらえだよな。
今夜、彼はわたしにそう言った。
「それ、バチェラーナイトに不謹慎じゃないの」
「バチェラーナイトだからこそ、だ」
騒がしい居酒屋で、彼はもう何杯めかもわからない大ジョッキを空にする。
「明日、二日酔いで式に出るつもり?」
「おまえに飲まされましたーって言い訳するー。ふたりっきりだからなー。ふたりっきりだったもんなー」
「やめて。わたし、ぜったいに責任とらないからね」
テーブルに伏した真っ赤な顔を持ち上げて、彼は「それ」と言う。
「おまえ、わたし、って、いつから言うようになったんだぁ?」
すこし呂律が回っていない。
「さあね」
わたしは微笑んで見せた。
「おまえが、ぼく、っていうの、好きだったんだよなぁ。あの頃さぁ」
「それはどうも」
もらったお冷やを、彼の頬につけて、熱を冷まさせようとする。
「はー、明日結婚だよー。おれはさー」
「くそくらえ、なんでしょ」
「そうだよー、なんで知ってんだよー」
「この話4ループめだからね」
「んもー」
伏したままの頬を卓に擦り付けるように、彼は体をすじりもじりとさせる。
「ま、でもほんとに二日酔いはやめてよね。わたしの感動的なスピーチが頭に入らないとか最悪だから」
「それはちゃんと聞くよー」
もう目を開けていられないのか、半分夢の中にいるみたいだ。
彼が結婚式のスピーチをわたしに依頼してきたとき、嬉しかった以上に驚きもした。
もっと驚いたのは、彼の婚約者だっただろう。きっと、わたしと同じで、男友達に頼むと思っていただろうから。
「こーんな大人になっちゃったんだなぁ」
「なぁにぃ?」
ひとりごとのつもりを拾われて、わたしは困って笑って見せた。
「明日のスピーチ、感動させてやるから覚悟しろって言ったの」
「りょ!」
ひひひ、と彼も笑った。
わたしへのスピーチの依頼は、普通に飲み込まれていこうとする彼の、抵抗だったのかもしれない。
屋上の金網の向こう側は、自由だけれど広くて、ふつうというコンパスなしには生きるのが難しい世界だった。それでもときどき、それを放り投げてみたくもなる。
彼はきっと、またすこしだけはぐれてみたかったのだ。一緒にはぐれる相手が「ぼく」
だったことを、いまはただ、嬉しく思う。
だからわたしも、コンパスを放り投げてみる。
「ぼくは今でも、きみが好きさ」
反応がなかったから、彼に聞こえていたのかわからない。だけど、それでいいと思う。
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