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長く低く、それでいてよく通る声
「とーまーれー!」
真夜中に突然耳元で叫ばれ、驚いて飛び起きた。
時計を見ると深夜二時過ぎ、一人暮らしなので部屋にはもちろん誰もいない。混乱していると追い打ちのように携帯電話が鳴り、驚きのあまりベッドの縁にしこたま頭をぶつけた。
電話は母からで、祖父が危篤だとの知らせだった。急ぎ始発の新幹線で京都の実家に帰ったが、すでに祖父は亡くなっていた。
おじいちゃん子だった私は子どもの頃、しばしば祖父に戦争の話をせがんだ。漫画やゲームの影響か、勇ましい戦争譚を期待していたのだが、祖父はそういう話を一切しなかった。ただ時折、東山霊山で催される慰霊会に出ていたので、従軍経験はあるはずだった。
忘れもしない小六の夏休み。その日、祖父はなぜか戦争の話をしてくれた。
だがそれは、私の期待とは程遠い、凄惨極まりないものだった。
祖父は「祭兵団」と呼ばれた部隊の、おもに大砲などを扱う部署にいた。部隊は東南アジアでの戦闘で敗北を喫し、何週間もかかる長距離を歩いて退却することになった。すでに食料も物資も底をついて久しく、もはや軍隊の体をなしていなかったという。
とにかく食べる物がなく、雨季のジャングルの中、仲間は飢えと病で次々と倒れた。皆が道端に横臥して下痢を垂れ流している。雨と泥と遺体と悪臭のなか、大きな鳥が動けなくなった兵隊に寄ってきて、生きたまま目や頬を啄む。それを振り払う力もなく、そのまま食われて死んでしまう者もあった。
「死んだらアリやウジがたかってな、目から来よる。目だけぱかっと黒く穴になるんや。三、四日でもう骨と服だけになってもて。あんなもん戦やない。死にに行っただけや。行って負けて逃げて、皆して野垂れ死んで……」
あまりの話に怯えて震える私の頭を、祖父はそっと優しく撫でてくれ、
「いずれ戦友が迎えに来るよってな。そん時は、儂は存分に生きたぞと。お前らの分もよう生きたぞ。こんな立派な孫までおって言うて、皆に紹介するわな」
と笑った。
後にきけば、母音を長く引き延ばした「とーまーれー」は、大砲を扱う部署特有の、軍隊での号令だという。
私が枕元でその声を聞いた日、つまり祖父の命日である八月十二日は、逃げ込むべき日本軍の支配地域を目前に、祖父の部署がわずか数名を除いて事実上全滅したその日だそうだ。
霊感などの全くない私の、唯一の不思議な体験である。
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