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プロローグ ①
2019年10月19日。僕は今、母の葬式に来ている。
母が所属していたキリスト教系の宗教のやり方に従い、式は進行。
聖書に基づく話――それは僕にとって、とても新鮮なものだった。
葬式が始まる前は、どうせキリスト教の葬式での話なんて、お決まりの内容だろうと高をくくっていた。
つまり、『故人が亡くなったのは神様の思し召しなのです。神様に愛されている証拠なのですよ』とか……。
『神様の近くに召されたのだから今、故人は最高に幸せなのですよ』とか……。
『天国でいつも私たちを見守ってくれているのですよ』とか……。
そんな何の慰めにもならない御託が並べられるだけだろうと思っていたのだ。
そう思っていたことには理由がある。僕の父もすでに死んでいるのだが、教会で挙げられた葬式での神父の話が、まさにそんな内容だったからだ。
父の突然の死は、僕が小学校に入学したころのことだった。死因は何だったのか覚えていない。
母は結婚して間もなく、近所の教会に通うようになった。しかしそんな母を、父は咎めることはしなかったそうだ。生前「僕が死んだら、葬式は君の行っている教会で挙げてくれ」と、半ば冗談で言っていた父の言葉を受けて、母は動いたのだった。
しかし、最愛の人の死に関して行われた神父の話は、母を大いに幻滅させるものだった。その話の内容はというと、先ほど僕が挙げたようなものだった。そのときのことは今でも、その場での母の様子と共によく覚えている。
母の、悲しみと怒りに満ちたあの顔。
式が終わると、話をした神父が近づいて来た。おそらくは母に直接、慰めの言葉をかけようとしたのであろう。
だが母は、神父の呼びかけを完全に無視した。
神父は呆れたような溜め息と大げさなジェスチャーだけをその場に残し、どこかに行ってしまった。
悲しみを怒りで抑えつけているかのような母の複雑な表情に、参列者たちも声をかけにくそうにしていたのだが、母はこのとき、その教会から脱退することを決意していて、数日後にはそれを実行に移したのだった。
だから、それからおよそ20年後に、母が再びクリスチャンになったと聞いたときには、正直かなり驚いた。どういう心境の変化だろうか?
ただ母は、その報告を電話で僕によこしたとき、少女のような声で『やっと真理に辿りつけたのよ』と、心から嬉しそうに話していた。
また教会に通いだしたのかと僕が訊ねると、教会ではないという返事。
だから、今僕がいるこの場所は教会ではない。このグループに所属している人たちは、この場所を別の名称で呼んでいた。
さて、葬式の話が始まったのだが、僕の消極的な期待は良い意味で裏切られることになった。幼い頃の記憶に残る、あのときのあの話とは、全く異なるものだったのだ。
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