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ぼく達が帰る前の日、皆で川に出かけた。大人たちがバーベキューの準備をして、お兄ちゃんやお姉ちゃん達はきゃあきゃあと川ではしゃぐ。ぼくもいっぱい遊んで、お肉も食べて、ミチコのことは忘れてすっかり楽しんでいた。
ところで、ぼくたちがいつも遊ぶ川の近くには小高い丘のような山があって、その道を分け入ったところに神社がある。遊びに来たときは必ず皆でお参りして、帰る時もちゃんと手を合わせに行くのだ。ぼくも周りに合わせてマネしてみるけど、大人達にとってはおかしいみたいで笑われ、恥ずかしくなる。
今年もだいたいそんな感じで、ぼくはふてくされて、皆が神社のそばにあるトイレに行ってる間、こっそり建物の陰へ隠れることにした。
あんなに晴れていた空が灰色に染まり、空気も水っぽいものに変わっていく。こういう時は突然雨が降るものだ。
ふいに、覚えのあるニオイが背後からただよった。
「あんた、こんなところにいたんだ」
振り向くとミチコが後ろに立っていた。あんまりにも近いから驚いて声が出る。しぃ、と、いたずらっ子のようにミチコが目を細め、指を自分の口に当てる。
「ひとりなの? あたしもひとりよ。ずっと、ずっとずっと。家にはいっつも誰もいなくて、つまらないの。お菓子はいっぱいあるけど、いっしょに食べる子はいないの。あたしの話をだあれも聞いてくれないの。あっちの学校に行ってた時もね、こんなとこに行きたくないってたくさん泣いたのに、全然聞いてくれやしない。大人ってわがままね。子どもの言う事なんて知らんぷりだもの。あんたの方が聞き分けいいわ。でも、あんたも、あたしをひとりにした。ひとりであんな暑い中、ずっと待たせたから、悪い子よ。しかもアイツラにチクっちゃって。すっごく悪い子だあ。あの後あたしすっごく怒られたのよ。あんたのとこに絶対行くなって、いじわるなおばさんのとこに無理やり預けさせられて。だからあたし逃げてきちゃった。ね、いっしょに行こうよ。いっしょにずっといられる場所に、あたしとあんたで行くの。ずっと、ずっと、ずっと」
淡々と、良く分からない話をされ、ぼくは困って皆がいるはずのトイレに行こうとした。いきなりミチコの腕が伸びてきた。そして気づくとぼくは、ミチコに抱えられ、田んぼのあぜ道を駆け抜けていた。神社がある山はすっかり遠ざかり、そっちの方から人が騒ぐ声がぼくの耳に届く。ぼくを探しているんだ。帰らないといけない、のに、ミチコはしっかりとぼくのおなかを両手で抱きしめてるから、ジタバタしてもびくともしない。
ぼくはあせって、困って、怖くなって、たくさん泣いた。するとミチコはぼくの口をふさいだ。あの独特のニオイが強まり、グぅとうめく。
「しずかにしなさい!」
もやのような暑さが地面から舞い上がり、灰色の空へ昇っていく。雲はどんどん暗くなって、やがて、大粒の雨が降り出した。すぐにふたりともびしょぬれになる。川で泳いだ時よりも気持ち悪くて、どうしてぼくはこんな目に遭うんだろうとすごく悲しくなる。鼻もいっしょに手で包まれているから苦しくなって、逃れたくて、ぼくはさらに暴れる。
「だめ! おとなしくして!」
ミチコが叫んだ。怒鳴ったその声に、泣きたくなるような響きが混じってることに気づいて、ミチコの顔を見る。その顔は、雨と涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
すると、ぼく達の後ろから、車の音が聞こえた。
それはだんだん近づき、ライトのまぶしい光が背中から浴びせかけられる。背後から来たトラックはすぐそばで止まって、中からおじさんの顔がひょっこり出てきた。
「あれえ、ハセガワさんとこの子じゃねえか。また遊びに来たんか。悪いなあ、たっくんはうちの奴らといっしょに川遊び行ってんだ。おれは仕事でよ、ちょうど帰るとこだから、家に送ってやろうか? ひでえ夕立だし、子どもじゃまともに帰れ……ん? 何抱えて」
そこまで聞こえた瞬間、トラックがどんどん遠ざかっていく。ミチコが走り出したのだ。あ、おい! とおじさんが呼ぶ声が聞こえたが、ミチコは止まらない。と、急に目の前がぐるんっと回り、ぼくは地面に背中をぶつけた。あまりの痛さにキャンッと悲鳴を上げる。起き上がりながらそばを見ると、ミチコはぬかるんだ泥の中へ倒れこんでいた。うぅ、と、ミチコも痛そうにうめく。
トラックから降りて走り寄ってくるおじさんをぼくが呼ぶと、おじさんは驚いたような声を上げた。と、トラックの後ろからたくさんの人がやってくる気配がした。そっちに向かって何度も呼びかけると、お母さんの良かったあという声が聞こえ、すごくホッとした。
一目散にお母さんやお父さんのいる方に走って、がむしゃらにお母さんの胸の中に飛び込む。お母さんは強くぼくを抱きしめる。お父さんも喜んで、ぼくの頭をたくさんなでる。
と、急にとっても大きな泣き声があたりいっぱいに響き渡った。
泥まみれのミチコが、ザーザー降りの雨に濡れながら、大人達が囲む輪の中でぺしゃりと座り込み、何度も何度も叫ぶように泣いている。それはまるで、迷子の子犬のような姿だった。
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