夏のある日の何もない日

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灼熱の光が降り注ぐ。 年々酷くなる暑さに眩暈を覚えながら目当ての文房具屋へと向かう。 「大丈夫ですか…?」 私の鞄を持ち、後ろを歩く彼女が心配そうに声をかけてきた。 不慮の事故で左足をおかしくしてしまった。本来であれば自分で鞄を持っているはずの手には松葉杖がある。 人生において松葉杖を使うことは初めてであり、不慣れな動きと暑さにより疲れが増す。 「ああ、大丈夫だよ。すまない、鞄を持って貰って」 「どこかで休憩されますか」 「いや、もうすぐだから、やめておこう」 怪我人にこの暑さは拷問だ、と独り言を呟き、杖で地面を突く。 巻かれた包帯の下が蒸れて、気持ちが悪い。 人通りの少ない商店街には、歩行者も少なく、すれ違う人間は片手で足りる程度だった。 買い物は勿論、何をするのにもオンラインで行われる現在、実体のある店舗が存在する店の方が少ない。商店街も殆どがシャッター街と化してしまった。 優秀なAIが人間の代わりに労働する場面も増えた。 アンドロイド、ロボットと呼ばれる者達が多く存在している。旧式であれば、人間ではないことが仕草などから判断できたが、数年前から製造されているタイプであれば、最早判断できないだろう。 ネットとVRが融合し、家に居ても他人と会える。触れたときの質感、ぬくもり、匂い……そういったものもある程度は実装されているため、実際に会っていることと大して変わりはない。 飲食は、サプリメントが存在しているため、こだわらない人間はサプリメントとミネラルウォーターで済ませている。 そんな世の中ではあるが、私は、この暑い中、蝉の煩い声を聴きながら歩いている。原稿用紙を買うために、だ。 詩歌や小説を書く生業をしているわけだが、私はいつも万年筆で作文用紙に書く。 このスタイルはデビュー時から変わっておらず、変えようとも思わない。 以前、何度か担当にデータに変えないかと持ち掛けられたが、最近ではもう何も言わなくなった。 ようやく目的地に到着。 古びた木枠のガラス扉をスライドさせる。 部屋の隅に置かれた扇風機の生温い風に迎えられた。 カウンターには、見慣れた店主が扇子を片手に文庫本を捲っており、自分と同じ、アナログから抜け出せない仲間を思わせる。 「おやおや。暑い中、お疲れ様です」 文庫本に栞を挟みながらカウンターから出てくる。 「いや、本当に。暑すぎて何度か死にかけました」 懐からハンカチを取り出して、額に滲む汗を拭く。 「お世話になっております」 遅れて彼女が扉を閉めながら挨拶をする。 「おお、此方こそ。君も大変だねえ、こんな偏屈な先生に連れ添うのは」 「いいえ、そんな。偏屈だなんて」 「ほんと、良い子だよ」 にやにやと笑って、店主は原稿用紙の棚へと向かう。 「本人の前で偏屈とは失敬な」 「褒め言葉だよ、褒め言葉。それで、原稿用紙は幾つ?」 「少し多めに買っておきたいから…そうだな、とりあえず三百枚分頼むよ」 ようやく汗を拭き終えて、一息。 店内は変わらず、インクと紙の匂いで満ちている。商品棚へ目を遣ると、品物が少ないことが分かった。 おそらく私のように買い手がいると分かっている品物しか用意していないのだろう。 「先生、インクは」 彼女の言葉に思い出す。 そうだった。インクももうすぐ空になるところだった。 「ああ、それと万年筆のインクも」 「あいよ」 カウンターに品物を運び、並べる。その間、彼女が鞄から私の財布を取り出して会計の準備をしていた。 会計を済ませれば、持っていた鞄の中に品物を入れていく。 「重くはないかい」 心配そうな店主に、彼女は微笑んで答える。 「大丈夫です、ありがとうございます」 「それじゃ、行くか」 「ありがとうございまし……ああ、そうだ」 店主がわざとらしく、ぽん、と手を打ち鳴らしてカウンターの下から一枚の紙を取り出す。 「このご時世、変わっているよなあ」 そう言いながら店主が渡してきた紙は、チラシだった。 白黒のそれには大きく『かき氷あります』と書かれてある。 大きく描かれた、かき氷のイラストは薄い灰色のシロップがかかっており、お世辞にも美味しそうとは言えない。 「まさか」 「そう、かき氷屋だと。まあこの夏だけなのかもしれないが」 そういえばかき氷など何年、いや、十数年食べていない。 小さい頃は、祭りの屋台で食べたが、今ではアイスクリームは食べてもかき氷を食べることはなくなってしまった。そもそも、かき氷と出会う機会がない。 貰ったものを返すのは悪いと思い、そのチラシを片手に店を出る。 外へ出た瞬間、鋭い暑さに思わずため息が出る。店の中は涼しいというわけではなかったが、やはり屋内と屋外は違う。 彼女が鞄を持ち、先導する。時折、後ろを振り返って私を気にかけている。松葉杖では、やはり、普段よりもかなり遅いペースでしか歩けない。 横断歩道に差し掛かる。歩行者用の信号が赤く点灯していた。 「あの」 彼女が不意に口を開いた。 「なんだい」 「先ほど、仰っていた、『かき氷』とは、あの、食べる氷のこと……でしょうか」 私は驚いた。 かき氷を知らないだなんて、と思った。 だが、まあそうだろう。サプリメントで済ませる人間が多い時代だ、食べ物の種類や名前など、最早過去の遺物なのかもしれない。 「すみません、知ってはいるのですが、見るのは初めてで」 「ええと、かき氷は、君が言っているとおり、食べる氷のことだよ。かき氷は、氷を細かく砕いて粉雪のようにしたもののことだ。その上から、シロップをかける」 チラシを彼女に渡し、イラストを指しながら答える。 「シロップ?」 「イチゴ味、メロン味、ブルーハワイ味、レモン味……色々な種類のシロップがある」 彼女は珍しく興味深そうな顔をして、考えていた。考える時、目を伏し目がちにする癖があるから、すぐにわかった。 「アイスクリームなら分かるのですが」 「かき氷はなかなか見ないからなあ」 信号が青になる。 歩みだそうとする彼女を呼び止めた。 「ここは右折だ」 「えっ」 「このお店に行こう。君にかき氷を見せてあげたい」 彼女は自分の手にあるチラシをじっと見つめる。心なしか、目が輝いているように見えた。 「ありがとうございます」 嬉しそうに笑う彼女につられて私も笑う。
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