夏、ひと吸い、いかがっすか

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夏、ひと吸い、いかがっすか

 最高気温が四十度近くまで上がった日、俺のアパートでは扇風機の熱風が万年床に汗と連れションをしていた。何時間もの間、カーテンをしていても通行証もないままに貫通して侵食してくる真夏の太陽はジリジリという効果音を文字面にして網膜を焼いた。寝返りを億劫にうつ瞬間だけ、死んだ水が温度を持ち逃げしていく。 「ああ、死んだ人は冷たくってやさしいや」  ラジオノイズにもならない俺の声は、ポカリスエットの湧き水源泉ほど近くで聞いた風の音に似ていた。 「夜、まだこの調子なら、売りに行こう」  暑さで死にそうな肉体がイヤホンをした耳だけで生きている。思考だけはいっちょ前に言語感覚がアクロバティックすらも拒絶している。飽和を越えた暑さの不快は理路整然とした思考を俺にくださる。ありがたやで涙も飴湯になり損ねるぜ。  枕元のデジタル時計が夕方を示す、ようし、夜まで、その調子でいろ。キリギリスも遊ばない熱帯夜の新記録なら、俺が遊んでやるんだから。仰向けに寝て目を閉じていると、涼やかなラジオスタジオのBGMに乗せてイメージが氾濫する。  泡を立てるストローは夏を吸うストロー。泡のひとつひとつに昔テレビでみたイリュージョンや学校の多目的室でみた素人手品好きおじさんのロープマジックが球体に角を切られてアルバム写真のようにいる。  ブクブクブク。溺れる音と同じ、ブクブクブク、弾けた泡。パンパンパンパン。ピストル、便器、ブクブクブクブク、ギャングはわざと窓に発砲する。助けてくれ、合図に階下の相棒は娼婦の喘ぎ声に合わせて泣いていた。 「夏の夜の夢、ひと吸い、いかがっすか」  生きている耳に、七十年代ハードロックが暑苦しく流れて来る。 「ブラックサバスだ、暑い、全員髪を切れ」  しかし、ギーザーのベースは当たりが丸いな、と、仰向けのまま抜けない天井を恨めしく、発砲する。 「九時をお知らせします」  網戸から入って来る風が若干熱冷まシート着用になった頃。ラジオの時報で俺は動き出す。夏、ひと吸い、売りに、行かなけりゃ。キリギリスも遊ばない。熱帯夜の新記録を。  ジャージの裾ファスナーを開けて折り上げたまま、汗に水没したTシャツだけは着替えて、素足で履いたコンバースは正しい行き先をひとつだけ知っているみたいに、軽い。後ろ手で鍵をかける。異常な暑さに不釣り合いな虫の声が心の淀みを払っていく。 「キリギリス、コオロギは元気だ。お前は、遊ばないのか」  ビニール袋に部屋にあっただけのストローを入れて、俺は歩き出す。カサカサとザリザリと歩き出す。月も鳥居も歩き出す。Tシャツのプリント裏に汗をすぐにかく。人通りの少ない夜の道を、Tシャツめくりめくり歩いた。そんな資格が俺にあるのか、美少女に訊ねられたらしゅんとするほどに、俺は強くもないくせに。  自動販売機は当たりを叫ぶ、少年たちは盛大に破裂してジャンケン大会が始まり、民家の二階からおばさんが苦情を叫んだ。「うるさいよ」と。少年たちは自転車を蹴って一団となる。調子に乗っておばさんに中指を立てたりして、威勢良く逃げ出す集団に、俺はストローを差し込みたい衝動に駆られた。きっと、俺より暑いはずだ。  コンバースが知っていた道筋に、逆らうことなく合流する。  靴紐は冷凍すれば食えなくもない、通り過ぎるパトカーはサイレンも鳴らさず、散歩されている犬は尾を振らない。暑い暑い、汗が帰り道用に等間隔でアスファルトを染める。シャドーの拳、8Rのパンチ。タオル投げんなよ。  駅前、歩道橋の下で路上ミュージシャンがギターを鳴らしていた。ギターケースに投げられた小銭は均一に外国の硬貨で、俺はパスポートコンプレックスに貧乏ゆすりをした。ごめんごめんと謝る。畜生と、舌打ちすることもせず。  ジャカジャカ、ジャカジャカジャカ。記録的な暑い夜にギターは音符をさえずって軽妙だ。奏でるお兄さんは上半身裸なのにアロハオエしている。立ち止まったら客になる。俺は俺を既に演じ始めた夜のエンジェルだ。さようなら。早く、唄えよ。曲を当てたい。ああ、でも君はいつまでも歌を唄わない。俺に、立ち止まっている数人のお客に、歌の泡が噴き上がるまで、君はきっと唄わないんだろ。  耳がギターを外れる。  ビール工場近く。ホップの匂いがバスの中まで染みている地域だ。  赤い鳥居を抜ける道は図書館への道でもある。  そっちじゃない。  俺は道路を挟んだ石の鳥居の方へ。  暑い、暑い。今日は暑い夜の新記録を出すはず。だから。  本殿、賽銭箱のよこちょにへたりこむと、俺は呟く。  ストリートミュージシャンの奏でるギターよりいい音色で。一日たっぷり蒸し風呂のアパートで死んでました。生きるために死んでラジオだけ聞いてました。暑い暑い、俺の体。 「ひと吸い、いかがっすか」 「ひと吸い、百円です。硬貨は五十円玉二枚なら嬉しいっす」 「タコ糸付けて自販機でカウント稼ぐ? 冗談。そんなことできたらもうやってます。二枚の五十円玉で鳥居を化かしてやるつもりなだけ」   社殿からワラワラと数人男と女が駆け出て来る。 「ひとつ」   「あたしも」  ストローが肉体の薄皮に突き刺さる。ブクブク。吸えよ。誰だ。遊ぶのは。俺はメロンソーダじゃねぇ。くすぐったい。 「ひとつ」 「僕も」  狛犬まで並んでいる。列をなしたストローが泡になったり、熱を吸ってくれて気持ち良かったり。  ザワザワと人だかりになっていた。アロハオエのストリートミュージシャンまで異国の硬貨を誰かと交換している。お前は唄え。ストロー咥えて唄え。  俺を吸いつけた人の群れが神社の敷地にべろべろ横たわって、ストローを咥えたまんま。 「海、行けた?」 「宿題の工作、砂絵作ってる、弟」 「朝顔、種、あげよっか」 「テレビ、壊れてるんだ。でもゲームモニターにしてる」 「お爺ちゃんがお小遣い三万円もくれたよ、パパ活すんじゃねぇぞってさ、偏差値低い高校に通ってると爺ちゃんまでえげつないよ」 「素麺のタイムラグを解決したらノーベル賞もんだよ」 「ああ、今、プールの水、出た」  口々に夏を捨てている。俺の熱が神社上空を占領して、空を裂いていた。ブクブク。肉体の薄皮に刺さった無数のストローが、俺を吸っていく。大量の五十円玉はアロハオエ柄のお兄さんに借りたギターケースに転がした。一個、永遠に回転を止めない五十円玉があって、ははぁん。幽霊も客に紛れていると思った。  ウーウー。近場で産まれたサイレンは誕生し損ねた命の翼みたいに短命に泣き止む。 「おまわり」 「ヒマワリ」 「暇な見回り」 「割に合わない嫌われ者」  おまわり、から始まった連想言語が神社上空をストロー伝いに駆け回る。二人の巡査がこの暑いのに厳めしい制服姿と拳銃携帯で近寄って来る。 「なに、商ってるんだ」 「許可は?」  と、わかりきった質問をしてくる。一人の巡査の口からは麦茶の匂いがした。 「今日は暑い夜の新記録、でしょう?」  俺の声が泡を元気にさせる、お客は巡査に十戒されてもストローで俺を吸い続けている。麦茶じゃない方がギターケースの小銭を瞬時に数え上げた。「二万三千六百五十円」やっぱり、幽霊一個。体半分。 「だから?」 「だから、熱を吸ってもらってるんです、昼間クーラー我慢して死んだんです」 「君、ねぇ」  麦茶の方がおもむろに背中から温度計を抜き出した。赤い球が落ちない線香花火みたいだった。 「三十度ちょっと、残念だけど日本記録には足りないみたいだよ」 「そう、なんですか」   わらわらわらわらわらわらわらわらわらわら。 「なんだって!!」 「冗談!!」 「返す、返す!!」 「記録、記録!!」 「諦めるな!!」  夏の一体感。無数×無数のストロー。狛犬も幽霊も。ブクブクブクブクブクブクブク。  ギターケースから五十円玉が回収される。一個だけ、回っていた五十円玉も。みんな仲間だ。 「はぁ」 「やれやれ」  二人の巡査も残っていたストローを俺に刺して。ブクブクブクブク。麦茶。麦茶じゃない方。暑い、暑い。泡が街の温度を上昇させる。  翌日、やっぱり暑い。警備のバイト中交番からてくてく歩いて来たおまわりさんに教えてもらった。「夕刊に載るみたいだよ、夜の気温新記録」片手でハイタッチをする。  まぁ、稼げなかったけど夏のいい思い出にはなりました。  
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