1.パン朝食 1

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1.パン朝食 1

白はあかるい。 黒はくらい。 黒はきらい。  「かずら」  誰かが名前を呼んだ。ばき、と音を立てて体の中の何かにひびがはいった。小さな心臓が薄い胸板の下で上下する。  僕は応えず、無機質で冷たい革のソファの上で脱力したように座っていた。しかし、体は硬い。頭の先からつま先まで、感電して凍りついたかのように動かなかった。自由になるのは眼球だけで、靴を履いた足の上に手のひらを広げ、その2つの間ばかり視線を行き来させる。クリニックの検査室は昼間と違って薄暗い。優しく声をかけてくれる看護師さんもいない。普段は順番を待つ患者さんが熱心に眺めているパネルにもセピア色の影が落ちて、反対にこちらをじっと睨んでいるような気がする。パネルだけじゃない。検査器具もレンズがたくさん入った木製のトランクもカラフルなパンフレットも眼球の模型も洗面台も―――全てがこちらを不躾に、興味深そうに眺めているような気がする。  背筋を走る嫌な予感に耐えかねて、何か違うことを考えようとした。しかしその途端に虫歯がずきんと痛んで思考に針を落とす。鋭い痛みが細い神経をくすぐるように駆け回って脳がしびれる。歯茎にできたできものにつばがしみる。体に住み着く不快な感覚が次第に体を支配して、冷や汗をかき、荒い息をついた。  吐き出せない言葉が腐って喉が鳴ったそのとき、検査室の奥の遮光カーテンがぬめりと翻った。その奥ーーー診察室の中には質量のある暗闇が溢れ出しそうに満ちている。  唐突にカーテンの間から腕がぬっと突き出した。大人の男の腕だ。割れかけていた臓器がついにばりんと割れる。そこで気がつく。これは臓器ではなくて、心だったのだと。  「かずら」  顔が見えないから、腕しかなかった。腕が僕の名を呼ぶ。そっと手招きをする腕から逃げ出したくて首を振ろうとする。  いやだ、と返事をしなくちゃならない。今日こそは。   だって、この先は、    しかし、僕の顔はぐつぐつと苦く沸き立つ気持ちに反して柔らかく微笑んだ。やっとのことで立ち上げた決意を簡単に振り払うように。そして身軽に立ち上がる。簡単に分離した自分に戸惑っている間にも、僕ーーーいや、二つに裂けたもう1人の自分だから、彼というべきだろうかーーー彼は踊るように診察室に向かって進んでいく。  いつの間にか僕の視点は少年の体を離れ、天井高くまで浮かび上がっている。彼はサイズのあっていない薄汚れたピンクのトレーナーを着て、長い前髪を恥ずかしそうにかきあげる。それから小さな口を開く。  「おとうさん」  絶句する。彼―――でもそれはすなわち僕、の幼い声がそう紡いだ。  彼は僕を置き去りにして、カーテンの中の深い暗闇へと入っていく。突き出た腕にすがるようにして。足元を掬われそうな絶望に囚われたたが救う術もなく、ただ服が擦れる微かな音を聞いていた。諦めてまた目を閉じる。体が重たくなって、床の中まで沈み込み、どこまでも落ちていく。床はぐにゃぐにゃと柔らかくなり、顔からもぐるように床下へと沈み込んだ。そのとき誰かが後頭部を強い力で押さえつけた。苦しい。目を開けたくないけれど、開けなければきっと溺れてしまう。  もがこうにも自分の腕は細く、まるで人形のように不自由で非力だった。まただ。またいつの間にか子供に戻っている。骨と皮しかない体に一瞬びくんと力が入り、それから一気に抜けていった。体を包み込んでいた諦めと絶望が胸の中まで流れ込み、うっすらと目を開くと、肌を焼くほどの大きくて眩しい光と、興奮して見開いた茶色の瞳が大写しになって、この体をくるもうとしていた。それはまるで大きな蛾の羽の模様のようで、肌が粟立つ。叫びたいけれど、喉はぐちゃぐちゃに膿み爛れて、使い物にもならなかった。  太い指が、伸びてくる。
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