1.パン朝食 1

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 自分の匂いが染み付いてふやけたタオルケットが僕を夢から引きずり出した。まつげについた水滴を拭うように、顔を押し付けて何度か瞬きをする。目だけであたりを見渡すと、いつもどおりの薄暗い部屋だった。窓の向こうから蜻蛉の翅のような薄っぺらい日差しが透けて見える。でも突き刺してはこない。まだ早い時間のようだ。2階へと続く階段の向こうから誰かの鼻歌が聞こえた。安堵が震えとなって胸を貫き、重たいため息に変わった。生暖かい空気が鼻腔を抜けていく。不快だ。  寝ぼけた頭の中はまだ半分夢の中の自分に使われていた。乾いてかすれた声と、24歳の手の大きさを確かめるように、天井に向かって腕を伸ばし、微かな声で問いかける。  「お名前は」  急に血の気がひいたように感じて力を抜くと、落下した腕何かに当たってベッドサイドからものが落ちた。脳みそはカチャカチャと音を立てて組み方を変えていく。少しずつ今の僕が戻ってくる。布団の上で脱力した手のひらを見つめて、心の中で再び同じ問いを繰り返そうとした、そのとき。  「珍し。れいあさん、起きたの?」  階上から声が聞こえる。こちらに向かってくる足音がする。慌てて体を起こした。2階に通ずる階段の一段目にかけられたカフェカーテンがうっすらと光を透かし、ひとがたの影が写し出していた。布越しにこちらを覗き込む気配がする。影は伺うような優しいで言う。  「あけるね」  頷いて、目を閉じる。いつもの約束どおり心の中でゆっくり5数えると、カーテンが開く音がした。  「おはよう」  聞き慣れたその声に誘われるようにして、つい目を開けてしまう。カーテンの向こうから漏れ出す朝の鋭い光が瞳の中に切り込んでくる。その中にぼんやりと誰かの顔が見えた。でも目を開けていられないほど眩しくて、思わず腕で目を覆う。  「ごめんね」  慌てた声とともに、またカーテンが閉まる。  「旭ちゃんがバイト先からパンもらってきて、今焼いてるからさ」  目が慣れたら起きておいでよ。  よく馴染んだ優しい声に目を閉じたまま頷くと、しつこく残っていた夢の中の感覚が消え去り、今の自分の手応えが戻ってきた。雑音としてしか処理されなかった物音に次第に意味が後付される。遠くから聞こえるふたつの声が遊ぶ蝶のように絡まりあって聞こえた。粘っこい声はもうどこにもない。  ベッドから降り、タオルケットを放って暗闇に足を踏み出すと、すぐに何かにつまずいた。足元に目を落としても、ぼんやりしてよく見えない。僕の目はもうほとんど見えていない。暗いと霞がかったようになって見えないし、明るいと全部反射して、眩しくて立っていられない。薄明るいくらいの状態なら、睨むようにしてピントを合わせれば輪郭を定めるくらいはできた。  この部屋は暗いから色すら見えない。舌打ちしながら、その場にしゃがんで手探りでものを探す。やがて手の甲にがん、と触れたそれを何とか掴んで持ち上げ、廊下から漏れ出る光にすかしてじっと見つめる。次第にピントが合ってきて、虫の蛹のような白いもやの向こうに見慣れた像を結んだ。  黙ったままの目覚し時計を握って立ち上がる。腰やら足やらをぶつけながらサイドテーブルに時計を戻して、また足下を見下ろすと、暗くくすんだ視界の中に夢の中と同じ頼りない足がちょこんと浮かび上がっているのか見えた。
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