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ばきっ、と立て付けの悪い風呂のドアが開く硬い音が隣の部屋から聞こえた。気圧の関係なのか開けるのに苦労するドアだったが隣の部屋もそうらしい。
オーブントースターの前でパンを片手に眠気を覚ましていた俺は、慌ててオーブントースターにいくつか押し込み、ネジを回した。じいん、と電熱線が焦げる音がする。
パンが焼けるまでの間に皿でも出そうかと何をしようかと、伸びをしてキッチンから出る。食器かごの前に立つとすぐそばの無粋な階段が目に入った。キッチンのすぐ裏側が上階につながる階段だから、ここにいると隣の部屋の音がよく聞こえる。この家は上の階が全部屋繋がっている。
メゾネット―――一見何の変哲もないアパートに見えるこの家を、俺達はそう呼ぶ。単にメゾネットタイプの作りだからだ。きっと建ったときからそう呼ばれていたのだろう。でも少なくとも建ったときは、隣室の風呂の扉の開閉音まではっきりと聞こえることはなかったと思う。築17年のこの家は、数年前に現在の持ち主に渡った際、大規模なリフォームをしている。床や壁や水回りを最新式のものに取り替えているのが目玉のように思われるが、真の目的はそれじゃない。
現在のこの家の持ち主は、2階の部屋を仕切る壁をすべて取り払った。部屋の境も消せるだけ消した。結果。保育園のホールほどの大きさの広間に、リフォーム前からのしっかりした作りの階段が4本生えているどこか使い勝手の悪い不気味な空間が生まれた。その階段の下に個人空間が1つずつ。俺はその1番左の部屋に住んでいる。隣が音寧くんで、その隣、ふた部屋をぶち抜いて使っているのがこのメゾネットの家主だった。
湯気に溶け込んだボディソープの匂いがこちらまで流れ込んできた。音寧くんの方にはきっとパンが焼ける匂いが漂っているだろう。焦げている可能性に思い当たり、慌ててキッチンに戻った。階上から、隣の部屋の階段を上がる音が聞こえてくる。
それぞれ玄関があって、本当なら普通のアパートよりプライバシーが守られる空間になるはずなのに、大事なところが欠けている。最初にこの家を見たときにも思った感想を改めて思い返しながら、焦げかけていたパンを皿の上に救出した。
すぐに飛んでくると思っていたのに、予想と裏腹に音寧くんはなかなか降りてこない。最初にトースターに入れたパンが冷め始めた頃ようやく、ドタドタと騒がしい足音とともに音寧くんが階段から滑り落ちてきた。
「めっちゃいい匂い、超いい朝」
最後の3段を飛ばしてどん、とフローリングに着地した音寧くんは、飛び跳ねるように勢いをつけてキッチンを覗き込み、ニカっと笑って言った。いい朝、って素敵な言葉だ。俺も彼に微笑みを返す。
「れいあさんも起きてくるしね」
音寧くんが歌うように発した言葉に、つい手を止めた。振り返って、彼の顔をまじまじと見つめる。何も言葉を紡がずに彼は俺の顔をまっすぐに見つめ返した。
「珍しいっすね、こんな時間に」
先に目を逸らしたのは俺だった。手元の皿に目を落としながら、平気なふりをして言った。戸惑いが少しだけ声に滲んだ気がする。彼はとがめることも、またフォローすることもなく、ただゆっくりとうなずいた。すでに焼けているパンを指先でつまんでかじりながら、窓の外に目を遣る。それからぽそりと小さな声で言った。
「眩しいって言うかな」
「階段危ないかもっすね」
そう言った次の瞬間、不揃いな足音が聞こえた。音寧くんの足音より遠い。2本の足と1本の手で不安定なリズムを刻みながら、ゆっくりと階段を上がってくる。俺は泉の主が苔にまみれた石段を這うようにぬらぬらと上がってくる姿をイメージする。太陽を嫌う透き通る肌と、ふやけたような瞳。
「視力うんぬんじゃなくて寝ぼけてるだけな気もするんだよね」
危なっかしい足音を聞きながら目を細める音寧くんを見て、複雑な気持ちになる。
この建物のもう1人の住人で、同時に若きオーナーでもある弱冠24歳の大金持ち。それがれいあさんだった。彼と顔を合わせるのはまだ何となく緊張する。出会ってひと月、生活時間が全く合わない彼とはほとんど話したことがない。たまに会っても独特なペースに巻き込まれて気まずい。その不思議な雰囲気にどこまで踏み込んでいいものか全くわからなかった。音寧くんとふたりでこの家にいるととても楽しいのに、れいあさんが出てくると途端にどうして接してよいかわからなくなる。だかられいあさんが来ると言われても素直に喜べないというのが正直なところだった。
「焦げてる!」
音寧くんが叫んだ。慌ててオーブントースターの扉を開ける。トングでパンをつまみだそうとした拍子に手首が中の鉄板に触れた。文字通り焼けるような痛みが走る。
「大丈夫?」
音寧くんは俺の傷口を押える手のひらを振り解くようにしてはずした。皮を引っ張りながら傷を見て、冷静な口調で言う。
「こら水ぶくれになるね、早く冷やそ」
そう言って音寧くんは親指で傷の周りをぴっとおさえて、そのままシンクの方に俺の手首をひいた。兄が弟にやるような親しさなんだか嬉しい。俺は小さい弟に心の中でなりきって神妙に頷き、彼に身を任せた。そんな俺の様子に気がつくこともなく蛇口をひねり、傷口を冷やそうとする。水は蛇口の口を伝うようにしてゆっくりと落ちてくる。
冷たく澄んだ水に腕が触れるそのとき、階上からとん、と軽い音がした。肘が壁にぶつかった、その程度の音。しかしがり、と肌を擦るような切ない音も紛れていた。
その途端、音寧くんは弾かれたように顔を上げた。俺の腕のやけどなんて一瞬で頭から蒸発したとでもいうように、俺の手を放り出す。離された腕は振り子のように揺れて、それでも流水のもとにたどり着いた。腕をつたう冷たい水と、生温い肌のコントラストが気持ち悪い。
音の主が階下にたどり着いた。壁に手をつき、首を伸ばすようにしてキッチンを覗き込む。白い肌の上に、穿たれた宝石のような瞳。雪の中から顔を出す鉱石のようで、いつ見てもどきりと胸が痛くなる。その目は綺麗すぎるが故に焦点がぼやけて本来の機能が損なわれているようにすら思える。実際彼は目が悪い。
れいあさんは眉をぎゅっとしかめて、目を細めて俺を見た。睨むような表情は醜くうつるはずなのに変わらず美しい。それが怖い。
「れいあさん、おはよ」
音寧くんが嬉しそうに言った。
れいあさんは音寧くんの方を向き、それから口の端を釣り上げて笑う。真珠のような白くて粒ぞろいの歯がかすかに覗いた。
「おはよ」
花のかんばせが、ほころぶ。
れいあさんは音寧くんを眩しそうに見たあと、俺にも視線をくれる。彼の視線が俺の顔の上を通っていったときだけ、手元の水の音が消えた気がした。きつく結ばれた蕾が緩むときのようなその淡い微笑みが、心を爪先でひっかけていったように感じて、思わず唇を噛んだ。火傷の傷が一層ひり、と痛んだ。
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