十年後・一塁手

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十年後・一塁手

「おまえが女だったら、さっさと結婚してるんだがな」  ぎくり、とした。  どきり、ではない。  リアルにエラーしたときと同じに冷えた汗が出たが、もちろん、そんなことはおくびにも出さない。それくらいの事は慣れっこだった。  ただその一言で、この十年ぐらいが一気に報われてしまって、おれは、こんなテキトーな居酒屋の片隅で泣きたくなったのだ。 「えー、ちょっとヤだなあ。タカヒロとだと、ストーカーとかに刺されそうじゃない」  ツンとした鼻を誤魔化すように、安い日本酒を煽る。 「は、はぁ? いないだろ、俺のストーカーなんか」 「いやー、どうだろう。ほら、大学二回生のときもさ、三年の、なんだっけ、あのバレー部のひと怖くなかった? 待ち伏せとかされてたじゃん」 「え、誰だっけ、マジでそんなのいた?」 「あとなんか、ちょっと怖いネトストとかもいたし」 「ええっ、てか、ネトストって何だ?」  冗談口に紛れて話を逸らす。  自覚が薄い質なのは、あの二枚看板ばかりではないのだ。うちのキャプテンも自分のことには鈍感だった。  十年以上前から。  ジョッキの残りを空けながら、「おまえなら、もう大体のことは説明しなくていいだろ」とかのうのうと言った挙げ句、この男は更にとんでもないことを言い出した。 「だから、一緒に北海道行かないか?」 「は?」  え、なにそれ、何の話? と、摑み掛かる勢いで聞けば、あちらにある系列校のコーチとして声が掛かっているという。  初耳だった。  ああ、どうしてこういうことを、この男は。  いきなり、こんな風に。 「おまえ、教員免許もってたろ? ちょうどいいかと思って」 「は… なにそれ、引退しろってこと?」  まだプレイヤとして野球は続けていた。未練が大半だったし、このキャプテンと繋がるよすがでもあったけれど。  一方、タカヒロは大学卒業後、すぐにスタッフとして母校に戻っていた。その関係からの話だとは思うが、少子化で学校経営は厳しいはずだ。甲子園をタネに生徒を集めようという魂胆はみえみえだが、そこで若手コーチを二人も雇う余裕があるのだろうか。  結局、興味に負けて、率直な疑問を口にする。 「そんな都合よく枠があるモンなの?」 「…ビミョー」 「はい?!」 「まあ、いまの監督さんがうちのN監督と同期らしくって、口利いてもらえるし、なんせ地方だから人が集まらないって。いちおう俺ら優勝メンバだからな。大学でも一回、全日本で優勝したし。何とかなるんじゃないかなって」 「そんないい加減な…」 「うん、だからすぐってのは無理かもしんないけど。ある程度、実績積んで、人脈も作って、なんとかさ」  訥々と、しかし真剣に、あの頃と同じ鋭い眼差しで、うちのキャプテンは。 「それなら、おまえとまた、あそこでノックできんだろ」  あの、空の青と雲の白と芝の緑と、土の黒  白金に輝く  日本一美しい、聖地の  嗚呼、本当にどうしようもない。 「…じゃあ、まず真っ直ぐキャッチャーフライ上げられるようになんなよ」 「あー? うー、うん、だなあ」  あれだけは未だにヘッタクソだよねえ、と、おれは必要以上に明るく笑いながら、油っぽい居酒屋の天井を仰ぐ。  あの蒼い空と銀傘は見えないけれど。  最後に見上げた白球の行方は。  色褪せない思い出の輪郭が、ゆるゆるとぼやけた。
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