0人が本棚に入れています
本棚に追加
山の天気は変わりやすい。山あいのこの町では夏のあいだ、ほぼ毎日のように夕立が来る。この町の住人は、天気の良い日は夕方に一雨あることを前提として生活している。
夕方近くの夏空はまだ晴れていたが、山にかかる雲が次第に膨らんでいくのが見えていた。遠くに雷の音を聞きながら、駅舎の脇の、駅の入り口が見える東屋のベンチに座ってしばらくすると、激しい雨が降り始めた。
視界をふさぐような雨を眺めながら、2年前の夏のことを思い出した。
■
中学2年の夏休みといえば気楽なものだ。
宿題はあるが、それだけのこと。日差しの下での部活はきついが、嫌いではない。来年はこうはいかない。宿題については休みに入ると同時にスタートダッシュを決め、今は休憩中。例年通りならこのまま先行分を使い果たして終盤に突入し、取り戻すために慌てることになる。わかっているが毎年そうなる。夏の不思議だ。それはうさぎとかめのうさぎに似ている。
午前中のみで部活は終わり、今日もゲーセンに行くぞ、と友人にいつものように誘われた。が、休みに入ってほぼ毎日こうなので、残念なことに金がない。夏といえばイベント目白押し。ゲームばかりに費やしてはいられない。誘いを断り、釣りでもしようと川に向かう。
川沿いには親水公園があるが、この時期は家族連れや近所の小学生が多い。そもそも釣りには適さないので、自転車でもう少し上流を目指すことにする。
林道に入る。道は緩やかにのぼっている。川は見えない。車道からやや離れているため、川に出るには道なき道を歩かなければならない。おかげで人がいることほとんどない。
道なき道を抜け、川に出る。釣りならもう少し上流がいいが、泳ぐのもいいな、と思う。泳ぐなら少し下がいい。そう思って下流側を眺め――
子供がうつぶせで浮かんでいる。
流れが滞っている位置のため流されてはいない。ただし動かない。
「マジか!?」
釣り具を投げ出して慌てて駆け寄る。浅いので足は着くが、気持ちばかりが急いて思うように進まない。
ヤバい死んでるかもとにかく引き上げなければ、と焦っていると、土左衛門(仮)がいきなりザバッと立ち上がった。
歳は近いと思うが背は低い。おそらく小学校高学年の男の子。見覚えがないのでこの辺りの子供では多分ない。
リアクションを取れずに固まっていると、土左衛門(誤認)がニカッと笑う。
「ちわ!」
生意気そうな笑顔だと思う。
「……どーも」
元気そうでなにより。
川から上がって日向に座る。濡れてはいるがお互いTシャツにジャージのため、日向にいればすぐに乾く。というか、この状態で日陰はむしろ寒い。木々の間を流れる空気は、時には身震いするほどに冷たい。
話を聞くと、親戚の別荘に滞在しており、もう2週間はこの町で過ごすらしい。この近くには別荘地がある。別荘が立ち並んでいるだけなので地元の人間には用がなく、近づくことは滅多にない。
では、あんなところで何をしていたのかといえば、
「泳いでただけ」
「泳いでたっつーか浮かんでたけど」
「そんな気分のときもあるよな」
紛らわしいことこの上ない。呆れていると、
「やー、ここで人に会ったことなかったからさぁ。油断してたわ」
そう言って笑った。
話していて分かったことは、男子小学生ではなく、同い年の女子中学生だということ。歳は本人から聞いたが、性別は一人称が『あたし』だったことで気づいた。
「あたしのこと男だと思ってただろ」
なぜバレた。せめて小学生だと思ってたことは黙っておこうと心に決める。
互いの地元のこと、学校のこと、好きなもののこと。しばらくしゃべっているうちに、服はすっかり乾いていた。
今日もきっと雨が降る。帰ろうとして、投げっぱなしになっていた釣り具を手に取ると、彼女はうれしそうに寄ってくる。
「釣り?」
「の、つもりだった」
「あたし釣りしたことない」
「ふーん」
「『ふーん』じゃないだろ。『やってみる?』って誘うところだろ」
めんどくさいやつ。
「やる?」
「やる!」
「じゃ、明日な」
そうして翌日から、暇だ暇だという彼女に付き合うことにした。
基本的には、夕立が来るであろう夕方前には別れていた。例外は一度だけ。
ふたりで一日中宿題をした日もあった。長期の滞在のため持ってきていたようだが、暇だ暇だと言う割に勉強している様子がなく、親に叱られたらしい。おかげで夏休み最後の日を待たずして片付いた。夏の奇跡だ。
いつもジャージの彼女はこの日ももちろんジャージだった。しかもこの日は学校指定の。知らない中学のジャージを着る彼女はやはり外から来た人間なのだと、そう思った。
最後の日、
「景色のいいところに行きたい」
と言うので、山の中腹の、展望台のある公園へ足を延ばす。ハイキングコースを、のんびりと歩いてゆく。
公園には、アスレチックコースや数十メートルの滑り台なども設置されている。この時期は県外からも観光客がやってくる。駐車場を通りかかると、県外ナンバーの車が何台も停まっていた。
「あ。あれあたしの地元」
彼女の地元のナンバーを見つけると、彼女はうれしそうに指差した。
駐車場を抜け、一段高い場所にある展望台を目指す。展望台はすぐそこだが、思ったより遅くなってしまった。
展望台に着く。視界が開ける。
町を見下ろして彼女は言う。
「いい眺めだな……あたしこの町けっこう好き」
ここで生まれ育った者としては、好きと言われて悪い気はしない。
彼女と並んで、町を見渡す。よく知る町の、見慣れた景色。自分では特に愛着や思い入れはないと思っていた。しかし、そうでもなかったようだと気が付いた。外から来た彼女の、好きだという言葉をうれしく思ったのは多分、そういうことだ。
そんなことをぼんやりと考えていると、急に空が暗くなった。雨が降る、と思った時にはすでに、たたきつけるような雨の中だった。
慌てて手近な大きな木の下に滑り込む。
ふたり並んで空を見上げる。時折、閃光が走り、雷鳴が轟く。
「すごいな」
「そうだな」
それでもすぐに雨は弱まり、空が明るくなってゆく。遠く、雲の合間から光が差し込んでいる。それを見たまま、彼女の方は見ずに言う。
「また来いよ」
「ん。来れたら来るわ」
ぞんざいな返事に思わず苦笑い。
「それ来ないやつじゃねぇか」
これは約束と言えるだろうか。
■
2年経ち、絵葉書が届いた。
アサガオが描かれたそれには、この夏遊びに行くといったことが、当時は互いに持っていなかった携帯電話の連絡先とともに簡潔に、意外にも整った字で書かれていた。
■
いつの間にか雨は上がっていた。駅の入り口に目をやると、女の子がひとり、こちらに近づいてくる。
彼女だと、すぐにわかった。が、それよりもまず、一目で『女の子』だと判断したことに戸惑う。
ベリーショートだった髪が少しだけ伸びている。装いはノースリーブにショートパンツ。以前はずっとジャージだったくせに。背はあまり変わっていないような気がするが、シルエットが2年前とは明らかに違う気がしてドキリとする。
近づいてくる彼女から、目を離すことができない。
「よう!」
ニカッと笑い軽く手を振る彼女は、2年前と変わらないように思えた。
「おう」
そう思ったことが少しうれしくて、こちらも笑って手を振り返す。
最初のコメントを投稿しよう!