第九話『渋谷』

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第九話『渋谷』

 悠長にしている余裕はなかった。どういうわけか名前と住所が特定されているのだから、きっと明日も誰かしらが来るだろう。いや、明日とは限らない。今日この後また来てもおかしくはないのだ。できる限り居留守を使うとしてもいつまでも続けられるわけではないし、それを気にしていたら生活音を立てることができない。早い段階で精神が正常でいられなくなってしまうのは明白だ。  そうはいっても、どうしたらいいのだろうか。そもそも何故特定されたのかを考える。接点といえば昨日羽田良子の自宅に行ったことくらいだが、このような事態になることを危惧して細心の注意を払ったつもりだった。あれからいままではまだ丸一日すら経っていない、それなのにどうして。  恐らくではあるが、警察はまだ相馬にはたどり着いていない。にも関わらず、幸福教は名前ばかりか住所まで特定しているのだ。国家の組織が劣るなんてことがあるのだろうか。カルト集団にはそれほどの力があるということなのか。相馬の中で得体の知れない相手に対する恐怖心は膨れ上がるばかりだった。  兎に角この家から離れなければならない。家を知られてしまっているにも関わらず留まり続けるのはどう考えても悪手だ。必要最低限の荷物をまとめることにした。  歯ブラシやシャンプー、ボディソープなどの消耗品は適当にコンビニなどで買うとして、Tシャツとパンツ、下着をいくつか乱暴にバッグに詰め込んだ。  相馬は普段から服装には何のこだわりもなかった。最低限人目を引かないかどうかだけは気にしていたが、着られればなんでもよかったし、好きなブランドなんか考えたこともない。都内に数え切れないほどの店舗があるということと、比較的丈夫で価格もリーズナブルというだけの理由から、ムニクロで買い物をするのが定番だ。下着から何から全てが揃うのが便利で好きだった。しかし、それはムニクロだからではなく、要件を満たしてさえいればどこでもいいのだ。高校生くらいまではそれなりに服装に気を使っていた覚えがあるが、こんなにも無頓着になったのはいつからだろう。思い出すことができなかった。  財布を覗くと、十万円ほどの現金があるようだ。これだけあればとりあえずはどうにかなるだろう。  時刻は六時半過ぎ。世間はこれから出勤ラッシュとなる時間帯なので、できることなら電車には乗りたくなかったが、それよりもこのままこの家にいることの方が耐え難い。  スニーカーを履き、家を出た。
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