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「今年の夏休み、美紘(みひろ)ちゃん、ウチに来るって」
梅雨の最中の七月始め。夕食最終盤に、母は思い出したかの様に言った。きっと食事中から、もしくはそれ以前から、ずっと言い出すタイミングを見計らってはいたのだろう。
「なんで?!」
「なんでって、毎年来てたじゃない」
確かに以前は、俺の三つ年上の母方の従姉妹、美紘は毎年夏休みの間中、叔母夫婦の家、つまりは俺の家に居た。彼女の両親は夏休みとは無縁の自営業者で、学校のない長い期間、娘の三食の面倒をサラリーマン家庭の親戚に頼っていたのだ。だが、美紘は中学に上がって部活で忙しくなって以降、夏になっても俺の家に来なくなっていた。
「でも、ここ…四年?来てなかったし、それに、今年は父さんと母さん、旅行行くじゃん?ウチ、俺しかいないんだけど?来る意味なくない?」
「それは伝えたんだけど、どうやらウチに来ないと『夏休み』って感じがしないんだって。別に侑都(ゆうと)は居てもいいって」
「『居ても』って誰の家だと…ていうか、むしろ、俺だけなのに何で断んないんだよ」
「何でって、誰もいないよりいいでしょ。佑都、美紘ちゃんと年が近いんだから、居た方が退屈しないだろうし」
俺の母は息子の、思春期男子の気持ちを察してくれるタイプでは無かったので、気拙かろうとはっきりと分からせるしかなかった。
「そうじゃなくて、俺、もう中二だろ」
「………知ってるけど?」
「いや、だから、俺、男だし、美紘も一応…」
俺の勇気は無下に扱われた。要するに、大笑いされた。
「美紘ちゃん、空手習ってたのよ?運動音痴のあんたが襲っても返り討ちされるだけでしょ。あ、デザート、桃食べる?」
母が席を外すと、それまで黙って妻と息子の会話を聞いていた父が小声で言った。
「父さんはそこんとこも考えなくはなかったけど、まぁ、お前を信用してるからな」
その晩、風呂上がりの廊下で、居間で両親が話している声が聞こえた。
「最近、姉さんと上手くいってないらしいの。少し距離置いたほうが、二人とも頭が冷えるんじゃないかって…」
「美紘ちゃんも、もう高二か…色々あるんだろうなぁ」
不用意に話に巻き込まれたくなくて、俺は冷蔵庫内のスポーツドリンクを諦め、喉の渇きを我慢して二階の自室に向かった。
「お邪魔しまーす!お世話になりまーっす!」
両親が海外旅行に行く二日前、お盆時期の直前に美紘は家にやって来た。
最寄り駅で父の車で迎えられ、玄関に姿を見せた美紘は、最後に会った小学六年生の時とは様変わりしていた。前から高かった背が、更に伸びていた。ショートだった髪が、セミロングに伸びていた。パンツばかりだったのが、スカートを履いていた。でも、それよりなにより、何もかもが変わっていた。彼女はそう、たまに電車に乗り都会に出た時に横を通り過ぎて行く、よその女の人の様になっていた。
「あ!侑(ゆう)、久し振り~。変わんないねぇ」
自分の方ばかりが成長してない風に見られた気がして、「どうして来たんだよ」と邪険な一言を掛けてやろうとしたが、美紘の周りから仄かに漂う、爽やか且つ甘い薫りに言葉が引っ込んだ。
「美紘ちゃん、悪いわねぇ。せっかく来てくれたのに、私たち出掛けることになっちゃってて」
「いえ、とんでもないです。こっちが我儘言ったんで。それに、接待は侑にして貰うんで」
女同士で好き勝手話し出したその内容は、聞き捨てならないものだった。
「な、なに勝手なこと言ってんだよ!」
俺の方をふり向いた美紘は、さっきの印象とは一転、五年前とそう変わらない、おちゃらけた笑顔だった。
「冗談だよ。居候させて貰うんだから、食事くらいは作ります」
美紘のいう「食事」がインスタント食品のアレンジメニューのことだと知ったのは、それから四日後の夕食でだった。
叔母夫婦がいる間の二日間は大人しい姪の皮を被っていた美紘だったが、スーツケースを転がす背中を見送った途端、本性を露わにした。彼女は居間から自室に向かおうとする俺の前に立ちはだかり、「じゃ、どっかいくべ!」と言い放ったのだった。
「…行ってらっしゃい」
「侑もだよっ」
「やだよ。外、クソあっついし」
「はぁ?何言ってんの?今年の夏は、今年しかないってのに」
妨害を避け、廊下に出ようとしたところを、背後から首に腕を回された。その状態で顔を寄せられた瞬間、また、あの匂いがした。
「どっか行こうよ~。費用はバイトで稼いだお金で奢ってあげるから~」
「行きたいなら一人で行けよ」
どんなに粘り強く断ろうとしても、美紘は結局、自分にとって夏の強権兄貴だった。俺はその日、全く興味の無い今夏公開のアクション大作映画に連れて行かれた。
その後も、美紘はやたらと「夏休み」らしい事をしたがり、それに俺を巻き込みたがった。近所の夏祭り、テーマパーク、水族館、フードフェス、自宅開催の徹夜映画上映会、それから、一日中ゲームをしたり漫画を読み倒したり…。キャンプとバーベキューは足がないことを理由に断念させたが、大抵のことは付き合ってやった。
でも、正直、俺は女子高生が中坊とつるんで何が楽しいのか、いまいち理解出来なかった。それで、皮肉っぽい言い方にはなったが、その事について聞いたりもした。
「暇なら、従兄弟じゃなくて友達と遊べばいいじゃん。地元に友達いないのかよ」
美紘はソファに寝っ転がり、ネットゲーム片手に答えた。
「いなくはないけど。やっぱ、夏は侑と遊ぶと夏って気になるんだよね。侑こそ、私が来てから全然友達と遊んでないみたいだけど、友達いないの?」
「美紘の学校と違って、俺の学校は進学校だから、そんな暇なヤツいないの。俺の勉強も、邪魔すんじゃねーぞ」
正直なところ、夏休みにわざわざ会って遊ぶ友人など、俺にはいなかった。でも、そんなことは知られたくなくて、自室に逃げ込んだ。
そんなこんなで、最初は落ち着かない筈だと思っていた二週間の女子高生との共同生活は、思いの外簡単に平凡につつがなく過ぎていった。
そうして、気付けば両親が旅行から帰ってくる日が翌日に迫っていた。
その日、美紘は午前中から洗濯に励んでいた。溜め込み放置していた数日分の着用済み使用済みの衣服とタオルという怠惰な生活の証しを、家主の目からから隠滅する為であった。
夕方に最後に干した洗濯物を取り入れ畳み終えた美紘は、水分補給目的で台所に下りて来た俺に訊いた。
「ここらへんで、花火売ってるとこ知ってる?」
「…コンビニとか?ホームセンターにもあると思うけど」
「そうなんだ。ウチの方はどこも大体花火禁止になってるから、あんま見ないんだよね。やっぱいいなー、田舎」
「いや、田舎じゃないから。普通に郊外、住宅地だから」
その後、家から出掛けたらしい美紘は、夕食前に買い物袋を花火で一杯にして帰ってきた。
俺は、花火は好きじゃない。煙が煙たいし、火薬の臭いも鼻孔をひりひり痛めつけてきて嫌いだ。だが、保護者なしで自由を満喫できる夏の最終日、一人で花火をやってろというのは流石に気の毒で、その日も俺は美紘に付き合ってやることにした。
夕食にレトルトのカレーそれぞれ激辛と中辛を食べた後、風呂場でバケツに水を汲み、蝋燭と点火棒、花火大小五袋を持って、陽が落ちきってもなお蒸し暑い外気の中、近所の公園に二人で出かけた。
久し振りの花火は、し始めのうちは面白くなくもなかった。同じ光でもLEDと違い高い温度を発する火花は、特別に正常で当たり前の光に思え、柄を持っている手に近付いてくる肌に感じる熱にも、現実を感じた。
しかし、それも花火の大小の袋をひとつずつ消費したところで、飽きてきてしまった。だが俺と違い美紘の方は、あくまでまだまだテンションが上がった状態らしく、火花を見つめ、いつも以上に口数多くはしゃぎ続けていた。
「もう飽きた。終わりにしようよ」
「えー?だって花火、まだこんなに残ってるよ」
「じゃあ、持って帰ればいいじゃん」
「だから、ウチの近所はどこも花火禁止なんだって。ほら、侑、今度はこれやって!」
新たに手持ち花火を一本押し付けられ、仕方なくそれに火を点けた。シュワッと出た火は思っていたよりも長くのび、火花が散った先にいた美紘は珍しく「キャッ」と女の子らしい声を上げてその場から飛びのいた。
「やってくれたな」
「わざとじゃないって」
四年前の美紘だったら、報復として俺に自分の持つ花火を向けることくらいはしただろう。しかし今年の彼女は、大きな笑い声を二人の他に誰もいない公園に響かせただけだった。
それからも十数分は途切れることなく花火に火を点けていったが、しかし、三袋目の花火が半分を切ったところで、バリエーションの少ない花火に美紘の方も飽きてきたようだった。
「そろそろ、締めにしますか」
美紘は一番小さいビニール袋を開け、中に入っていた線香花火を俺に渡した。
「侑、線香花火は好きだったよね」
「美紘は地味だから、嫌いなんだろ?」
美紘は聞いていなかったのか、黙って蝋燭の近くに屈み込み線香花火の先に火を点けた。それに続いて、俺も蝋燭ににじり寄り、花火の先を炎の上に垂らし彼女のすぐ横で、二本のこよりの最下部を見つめた。
そういえば、二週間近く一つ屋根の下に暮らしていたのに、こんなに接近した位置にお互いがいるなんてなかったかもと、急に意識した。
美紘の持つ花火が細かい火花ばかりの状態から段々と丸い火の球を大きくしていった。唐突に、美紘はさっきの質問に答えた。
「地味で嫌いだったんだけど、今は嫌いじゃないよ、線香花火。夏が終わるのに付き合ってくれてる感じ、しない?」
オレンジ色の球が成長しきる前に、火は力尽きた。「五年の間に老けたな」と俺が言うと、「かもね」と美紘は否定しなかった。
美紘は消えた線香花火をバケツに放ると、二本目の線香花火を手に取って、一本目と同じように火を点けた。さっきまで暗くなっていた周りは彼女が垂らした先に発生した火花でそこだけ少し明るくなった。光に視線を吸い寄せられた俺は、夜から浮かび上がり輝く美紘の横顔を間近に目にした。
「多分、こんな風に夏過ごすの、今年が最後だろうから」
そう言う彼女の顔は、かたちこそ五年前の我儘勝手な少女の面影を充分に残してはいたが、しかし、もうすっかり別のものだった。
「あ、落ちた」
彼女の伏せた瞼のさき、俺が持っていたこよりの真下に、地面でぶすぶすと消えかかる小さな火があった。
「美紘、来年大学受験だもんな。俺も中三だし」
美紘の二本目は、一本目よりももっと寿命が短かった。二人の間の光源はしばしの間、一本の蝋燭の炎だけになった。
大学二年の夏、バイトで稼いだ給料で免許を取り、前々から憧れていたバイクを買い、ひとりツーリングの旅に出た。
一週間の国内旅行の、その折り返し地点に入った直後だった。国道沿いのラーメン屋で食事を摂っている最中に実家の母から電話が入った。何かよくない急用かと急いで出ると、意外な提案をされた。
「帰りのついでに、美紘ちゃんに会いに行ってみれば?」
「えっ、美紘、音信不通だろ?」
「伯母さんとはね。私とは前々からやりとりしてて…ちょっと待って、住所送るから」
母から送られてきたのは、ゆかりの無い県名の、ごく短い住所だった。
日暮れ前、舗装が割れた狭い道路でバイクを転がしていると、生垣の途切れた場所から手を振るデニム姿の女性が、ヘッドライトに照らし出された。
「おー、やっぱバイク、原チャより迫力あるね」
紫色の仄明るい視界の中、生垣の前に止めたバイクのシートに触れる美紘からは、あの甘い薫りはせず、清潔感ばかりを強調した一般的な洗剤の匂いがするばかりだった。
「侑も、大きくなったね。最後に会った時は、中二だったっけ?あの時は背も私と殆ど変わらなかったのに、今は見下してきちゃって、生意気」
「見下してって、ただの背の高さの違いだけだから」
三歳年上の美紘は、まだ二十三になったばかりの筈だった。それなのに、都会の街で見かける同じ世代の女性とは何かが違い、そして、言葉にも昔にはなかった訛りが混じっていた。
「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」
生垣の奥にある広い庭から、男性が幼稚園児くらいの子供の手を引いてやってきた。俺は彼に「すみません、突然」と慌て気味に言いながら、会釈をした。
美紘は高二の夏休みの直後に、高校を中退した。そうして両親の反対を押し切り、バイト先で知り合ったという男性と一緒に、地方にある彼の実家で暮らし始めた。その翌年の春、美紘は男の子を出産した。
母から知らされていたのはそこまでで、俺はぼんやりと計算し、そうして、あの時の美紘のお腹にはもう子どもがいたのだと分かった。それから、都会っ子の彼女がどれだけ田舎に馴染めるものだろうかと、少し心配になった。
「さあさ、どうぞ上がって。弟みたいなもんだって、美紘さんから聞いてますよ」
美紘の舅姑は快く家に嫁の親戚を招き入れてくれ、その晩は数え切れない程の品数のご馳走を食卓に載せてくれた。
食事の後もビールのご相伴にあずかっていると、子供の寝かしつけから戻って来た美紘が、前振り無しに言い出した。
「侑、花火しよう」
「え、花火?」
「そう、花火。一週間前くらいにやったのの残りあるから。残しといても湿気っちゃうし」
「でも…」
俺は襖の先にある隣の部屋の方を見た。
「せっかくだし、子供とやってあげた方がよくない?」
「いいよ。あの子とは来年も再来年も出来るし。さ、行くよ」
美紘に背中を叩かれた後、彼女の舅と夫の顔を見ると、二人とも美紘の強引さには慣れているのか、「行っておいで」の顔をしていた。
参加者二名の手持ち花火大会は家の前の道路、生垣の直ぐ脇で行われた。
「こんなとこでやってたら、車来ない?」
俺は視界の良い直線の道路を右左と眺めた。
「大丈夫大丈夫。ここ、私道だから」
美紘は残り本数の少ない袋の中から一本手持ち花火を取り出すと、先に火を灯し、火花を散らし始めたそれを俺に手渡した。
「美紘、良かったな。田舎に嫁に行って」
「んー?なんで?」
「だって、禁止されてないから、いくらでも花火できるだろ」
「確かに。でも、やっぱり、私にとって、夏休みと言えば侑んちの田舎なんだよね」
美紘は自分が持った花火を俺の花火の先に近付け、火をもっていった。
「だから、あそこは田舎じゃないって。郊外、住宅地。田舎は今いるここみたいなトコだから」
「失礼しました。じゃあ、ああいう感じの郊外の家なんだよね。で、弟分とつるむという…」
「弟分って、俺か」
この晩も、最後は線香花火だった。世間はどうか知らないが、美紘が手持ち花火の終わりを線香花火で飾りたがるのは、彼女の叔母であり俺の母である女性の影響ではないかと、ふと気が付いた。
最後の線香花火が終わりかけた時、美紘に伝えた。
「家に戻る前に、伯母さんトコにも寄ってくつもり。お土産、置いてきに」
「そっか」
それまでの中で一番大きく育った火の球だったが、終にボトリと地面に落ちた。
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