アズマさん

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 これは、僕がまだ小さかった頃の話だ。  我が家では毎夏、父方の祖父母が住む田舎で盆と避暑を兼ねて二週間ほど滞在するのが恒例になっている。そこで僕は父とカブトムシを捕まえたり、川で泳いだり、山を探検したりして遊んでいた。おかげで小学生の頃は絵日記の宿題に書く内容に事欠かなかったが、その懐かしの絵日記が先日大量に出てきたことがきっかけでこの話を思い出した。  文章は最小限に、イメージを最大限に。色鉛筆で好き勝手に描かれている思い出を眺めて我ながら微笑ましく思っていたところ、日記帳の山の中から一枚の紙切れが出てきた。  その破られた日記には、人間が二人描かれていた。バランスこそ全くとれていないが性別くらいなら判別がつく。片方は男の子で、恐らくは僕自身。もう片方は髪の長い女の子で、僕より明らかに背が高い。二人は古い家屋の縁側のような場所にいて、女の子だけが縁側の上に立っている。  女の子のそばには、家屋を塗ったついでに書いたのであろう、茶色い字で『アズマさん』と書いてあり、しかしそれは上から雑に黒く塗り潰されていた。文章を書く欄は空白で、裏を見ても何も書かれていない。  アズマさん。その音を頭の中で再生した瞬間、記憶の扉が軋みながらかすかに開く。  そう、そういえば、そんな女の子がかつてあの田舎にいたのだ。古い家に一人で住み、僕を「少年」とだけ呼び、ときどき激しく咳き込む、ひまわりのような笑顔をみせる少女が。
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