アズマさん

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 絵日記によれば僕が十歳のとき。その頃の僕は、親の監視下をある程度離れて祖父母邸の付近を探索することが許されていた。探索と言っても周囲にあるのは田んぼと裏山くらいで、有り体に言えば何もないのだが、人生の九割五分を都会で過ごす僕にとっては毎日見ても新鮮な景色で、小さな発見を重ねては喜びに胸を高鳴らせていたのを覚えている。  そんな日々の中で、自分の中で決めていた「家の周り」をほんの少しはみ出して冒険したことがある。家が目視できない位置まで回り込んだだけであり、距離としてはさほど遠かったわけではないのだが、当時の僕はその背徳と恐怖に炎天下ながら震えを覚えた。  そこには別の家があった。祖父母邸と同じく日本家屋だが、明らかにより古い。門があるわけでもなくただそこに建っているだけのその家には、入ろうとさえ思えばあっさり入れてしまう。誰も住んでいないのだと直観した。  少し中を覗いてみよう。それくらいの気持ちで縁側に近づき、そっと木製の雨戸に手をかける。後ろのガラス戸が立てるガタガタという大きな音にやや怖気づきながらも、どうにか僕は家の内側を見ることのできる状況を作り上げた。  外からの明かりが照らすところ以外は暗く、奥にあるのであろう部屋の様子は全く分からない。いっそ中に入ってみようかとガラス戸を引こうとした瞬間、背筋が凍る思いをした。 「少年、ここは立ち入り禁止だぞー?」  その声は真後ろから聞こえた。はっとして振り返ると、中学生か高校生か、とにかく僕よりずっと年上の女の子がいつの間にか仁王立ちしていて、いたずらっぽく笑っていた。白地に黒い大きな水玉のワンピース、背中まで届く長い黒髪。どちらかというと丸顔で、目はやや細め、鼻は小さめ。眉がやたらとたくましいのが最も印象的だ。  身長差にまかせて思いっきり僕を見下ろしていた彼女だが、間もなく腰をかがめて目線を合わせてきた。そこで初めて僕は、額の上の青いカチューシャに気づいた。 「ね、どこから来たの?」  不法侵入を咎めるでもなく興味津々に尋ねる少女に、僕はすぐそこの家だと祖父母の苗字を伝えた。 「あー、じゃあご近所さんだ」  僕がこの土地に住んでいるものと思ったらしい。勘違いを訂正すると、彼女は目を輝かせる。 「えっ、じゃあ都会っ子? いいなー!」  都会に住んでいるというだけで羨ましがられる。不思議な感覚だった。僕からすれば、そっくりそのまま「田舎っ子っていいな」と返したいくらいだ。  すっかり僕のことを気に入ったらしい彼女は、都会のことを根掘り葉掘り尋ねてきた。車はたくさん走っているかとか、デパートは面白いかとか、レストランの食事は美味しいかとか。ときどき小学生の僕では分からない質問も混じっていて、知らないと答えると「あー、そっかー、そうだよねー」とその太い眉を下げる。そのたびに僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。  話しているうちにかなり時間が経っていたようで、気がつけばヒグラシが鳴き始めていた。 「おっと、今日はもう遅いね」  帰った帰ったと背中を押され、僕は軽く別れの挨拶をして歩き出す。しかし間もなく後ろから「少年!」と呼び止められた。 「明日もお姉さんに会いに来てよね! 聞きたいことがいっぱいあるからさ!」  そう言って彼女はひまわりが咲くように笑う。僕は適当に返事をしてその場を後にした。 ◆  帰ってからは特に何事もなかったように過ごし、寝る前に祖母にこっそり確認をした。 「あっちのさ、森の反対側って、誰が住んでるの?」  明確に禁止されていたわけではなかったが、なんとなくそこに行ったことを知られたくなくて、遠回しな表現を使った。  祖母はしばし考えるように空を見つめてから、やがて柔らかく微笑んで言った。 「あそこはねぇ、アズマさんがおるとこさね」  あんまり近づかんようにね、と言われたような気もするが、少なくとも当時の僕の耳には届いていなかった。  アズマさん。その響きだけが、頭の中をぐるぐる回っていた。
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