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「来たね、少年」
翌日も、僕はアズマさんの家へ足を運んだ。親には裏山でクワガタを見つけると言って。
雨戸が全て開いていて、中は電気もついていた。明るくなった居間にはちゃぶ台がぽつんと置かれているだけだった。
「せっかく来たんだし、上がりな?」
縁側でサンダルを脱いで、直接中に入った。室内にアズマさん以外の人気はない。廊下を歩くと足裏がなんだかむずむずした。
隠し扉のようになった階段の入口を開けて上り、二階へ。板張りの床が軋む。
アズマさんが窓を開け放つと、目いっぱいに広がる田んぼの風景を見ることができた。
「すごいでしょ、お姉さんの宝物だよ」
景色のことを宝物と呼ぶその感性のほうに驚いたのを覚えている。
厳密には屋根裏なのであろうこの部屋が、アズマさんの自室なのだという。窓から吹き込む爽やかな風になびく彼女の黒髪に、なんとなく目を奪われた。
「さて少年、昨日の話の続きをしようか」
今度は僕自身のことについていろいろ訊かれた。どんな場所に住んでいて、家がどういうつくりで、普段どんな生活を送っているのか。自分のことなので分からないことも少なく、僕は前日よりも一生懸命に答えた。
アズマさんのことも知りたかったが、僕のほうから質問をすると彼女はすぐに笑いながら眉を下げた。
「その話はまた今度ね」
そう言って、僕の学校の友達について訊いてくるのだった。
喋っている途中に何度か、アズマさんが咳き込むことがあった。水が喉の中で通り道を間違えたかのように激しく咳をするので、僕も心配になって大丈夫かと尋ねるのだが、彼女はいつも「へーきへーき」と笑って、僕に話の続きを促した。
やがて窓から差す日の光が柔らかくなってきた頃、アズマさんは急に手を叩いた。
「はい、終わり! 続きはまた明日だよ、少年」
階段を降りて、廊下を歩いて、縁側から外へ。軽く手を振って彼女に背を向け、少し歩いてから振り返る。彼女は縁側に立ったままこちらを見つめていた。
「アズマさん!」
大きな声で名前を呼ぶと、アズマさんは一瞬目を見開いた。
「どこで聞いたの、それ?」
「おばあちゃんから!」
彼女が叫ぶ前に、その眉がいちだんと大きく下がったのを僕は見逃さなかった。
「私のことは、お姉さんと呼びなさい!」
たしか、あの日記の絵を描いたのはこの日のことだ。
◆
それから僕はほとんど毎日、アズマさんの家に通った。父に遊びに誘われたり、近所のお祭りに出かけたりした日は行けなかったが、アズマさんは「そういう日もあるよ」と笑って許してくれた。
数日の間に、僕はアズマさんに話せることを全て話したような気がした。それくらい彼女は僕にさまざまな質問をぶつけてきたのだ。まるで僕を通して世界の広さを知ろうとするかのように。彼女の部屋から見える田んぼだけがこの世界の全てではないのだと確認するかのように。
「お姉さんも都会に来ればいいのに」
僕がぽつりとそう漏らしたとき、彼女もまたぽつりと言った。
「そうできればよかったんだけどねぇ……」
窓の外を見つめるアズマさんの横顔は、そのときだけ雲がかかったように見えた。
そして彼女は激しく咳をした。それまででいちばん辛そうだった。僕が背中をさすってやると少しは楽になったのか、荒い息をしながらも「ありがとう」と笑ってみせた。
◆
都会に戻る日が迫っていたとき、アズマさんの家から戻るところを祖母に見つかった。ただでさえ白い祖母の顔がさらに蒼白になったのを見て、僕は急に逃げ出したくなった。
「どこ行ってたんだい?」
いつもより鋭い声に怯えた僕には、アズマさんの家がある方角を指差すのが精いっぱいだった。
「アズマさんのいる家には近づかんようにって、言わんかったかい? え?」
僕の肩を後ろから抱くようにして、祖母は足早に僕を家へ連れ帰った。それから二度とあの家に近づかないように約束させられ、僕とアズマさんの密会の日々は唐突に終わった。
道端でひまわりが枯れていた。
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