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 言葉を発するより先に、橋本は洗練された動作でサングラスを外した。彼は視線を手元のサングラスに落とす。 「イルカショーで怪物の話に真剣に答えてくれた時、嬉しかった」 「もしかして、あれって今度やる役?」 「ただの暗い妄想ですよ」  はぐらかしている風だったが、あの青い空間で一人じっと水槽を見つめていた彼を思うと、それもあり得る気がして何も言えなかった。  橋本が顔を上げた。俺よりほんの少し背の低い彼の、アーモンド型の大きな目に、夏の夕方の光が静かに映り込む。1歩、2歩と歩み寄ってきて――。  俺と彼の顔が、マスクが重なった。  唇に触れる乾いた質感、そして、マスク越しに微かに伝わってくる柔らかい感触。異常な世の中を象徴するようなキスだった。一瞬、子供でもないのに固まってしまう。俳優にとってはこのくらい大したことではないのだろうか。  顔が離れると、そこには微熱を宿した奥二重の瞳があった。今の冷ややかな思考が吹き飛ぶ。胸の鼓動が徐々に強まってくるのを感じた。 「……俺は直接でもいいけど?」  できる限り落ち着いた声で言ってみると、橋本は一拍おいて首をゆっくり横に振った。 「感染したらみんなに迷惑がかかりますから」  どういうつもりかは分からない。一時の気まぐれかも知れない。でも、仕事柄もあって純粋に興味はあったが、その答えが何でも俺は別に構わなかった。  ただ、ここまで来ても心の内を明かしてくれない、明かすことができない彼が、無性に切なかった。 「もう十分濃厚接触だし、手遅れな気もするけどね」  俺は橋本の背中をそっと抱き寄せた。彼はこちらに腕を回すことはしなかったが、大人しく体重の一部を俺に預けてくれた。シャツから漂う柔軟剤の香りが、マスクをすり抜けて鼻をくすぐる。 「橋本君、今日はありがとう。楽しかった」 「こちらこそ、楽しかったです」  耳元での小さな声は、俺には本音に聞こえた。  気温と体温と、2つの熱が俺の体に染み込んでくる。自分にも、そして橋本にも、こんな夏は二度と来ないだろう。まるで幻のようだと思った。  俺は彼が消えてしまわないように、腕に僅かに力を込めた。彼にもこの温もりが伝わればいいと思いながら。  
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