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 この年の夏は異様だった。街の中を行き交うマスク、マスク、マスク。日本、いや世界は未知のウィルスに日常を脅かされていた。外出を自粛するムードと7月の長雨のせいで、夏が来たという実感が湧かないまま、列島はズルズルと8月に突入した。  そんな夏のある平日、俺は一人、マスクをつけて水族館に足を運んだ。  開館時刻を過ぎたばかりの爽やかな冷気が、朝だからと油断して暑さにやられた黒髪の頭と体を包んでくれる。ブルーの壁やマットが目にも涼しい。俺は少しぼうっとする頭で薄暗い青の世界を奥へと潜っていく。  お目当ては最初から決まっていた。  そのエリアに足を踏み入れると、大きな水槽がパッと目に飛び込んできた。高い天井の近くまでいっぱいに伸びた四角いアクリルガラスの中で、ありとあらゆる形をした魚達が生み出すダイナミズム。澄んだ水はライトによるものか全体がぼんやりと水色を帯びている。朝一番の、余計な邪魔のほとんど入らない大水槽は、俺が水族館に来たら絶対に見たいものの一つだ。  躍動する生命の姿を二重の目いっぱいに取り込み、一息ついたところで、俺は気づいた。俺の後ろ側、ステージあるいは中二階のように数段だけ高くなっている場所で、1人の男性が長いすに座っていた。  アクリルの安全柵に映る大水槽の幻。その向こう側にいる彼も、水槽からの明かりで水色っぽく照らされている。マスクにサングラス。一歩間違えば不審者風だが、不思議とそう感じない、周囲の暗がりに同化するような静かな(たたず)まい。  俺の頭はまだ、ぼうっとしていた。  
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